日本人学童排斥問題 (にほんじんがくどうはいせきもんだい)
【概説】
1906年にアメリカ・カリフォルニア州のサンフランシスコ教育委員会が、日本人児童を一般の公立学校から隔離し、東洋人学校へ転校させようとした差別的事件。日露戦争における日本の勝利を背景に高まった「黄禍論」や排日移民運動を象徴する出来事。この事件は、それまで親密であった日米関係が対立と緊張の時代へと向かう契機となった。
排日移民運動の激化と「黄禍論」の台頭
19世紀後半以降、アメリカの西海岸、特にカリフォルニア州には多くの日本人移民が渡航していた。彼らは勤勉に働き、農業や小規模商業で成功を収め始めたが、これが現地の白人労働者や農民との間に経済的摩擦を生むこととなった。すでに1882年の中国人移民禁止法によって中国系移民が排除されていたため、排斥の矛先は次第に日本人へと向けられるようになった。
この対立を決定的なものにしたのが、1904年から1905年にかけての日露戦争における日本の勝利である。東洋の小国と目されていた日本が、列強の一角であるロシアを破ったことは、欧米社会に強い警戒心を抱かせた。これにより、黄色人種が白人社会を脅かすという「黄禍論(こうかろん)」が急速に台頭し、カリフォルニア州での排日運動は一気に過激化していった。
サンフランシスコ大地震と隔離命令の波紋
1906年4月、サンフランシスコは大地震(サンフランシスコ地震)に見舞われ、市街地は壊滅的な被害を受けた。この混乱と社会不安の中で、市民の不満のハケ口として日本人移民への排斥感情がさらに煽られることとなった。
同年10月、サンフランシスコ市教育委員会は、市内の公立学校に通う日本人や韓国人の学童(約90名)を一般の学校から隔離し、中華街にある「東洋人学校(Oriental Public School)」へ通わせるという決議を強行した。この措置に対し、現地の日本人社会や日本政府(第1次西園寺公望内閣)は強硬に抗議し、日本の世論も「国辱」として激しく反発した。日露戦争の勝利直後で対外的な自負心が高まっていた日本にとって、この露骨な人種差別は到底受け入れられるものではなかったのである。
ルーズベルト大統領の調停と「日米紳士協定」
事態の緊迫化を受け、日米間の軍事衝突(日米戦争)への発展を恐れたアメリカ大統領セオドア・ルーズベルト(セオドア・ローズヴェルト)が事態の調停に乗り出した。ルーズベルトはカリフォルニア州当局や教育委員会の関係者をワシントンに呼び出し、説得を試みた。
その結果、1907年にサンフランシスコ教育委員会は学童の隔離命令を撤回した。しかしその引き換えとして、連邦政府は日本からの移民流入を制限することを約束せざるを得なかった。これにより、1907年から1908年にかけて、日本政府が自主的にアメリカ行きの労働移民のパスポート発行を制限する「日米紳士協定(日米協定)」が結ばれることとなった。
この事件は、一応の決着をみたものの根本的な解決には至らなかった。その後もカリフォルニア州では「排日土地法」(1913年・1920年)などが制定され、最終的には1924年のいわゆる「排日移民法」による日本人移民の全面禁止へと繋がっていく。日本人学童排斥問題は、日米の親善関係が終わりを告げ、太平洋戦争へと至る長い対立の歴史の始まりを告げる画期的な事件であった。