日露協約 (にちろきょうやく)
【概説】
日露戦争後の1907年から1916年にかけて、日本とロシア帝国の間で四次にわたり締結された二国間協定。満州(中国東北部)や内蒙古・外蒙古における両国の特殊権益(勢力範囲)を相互に承認し合い、東アジアにおける既得権益を共同で維持・擁護することを目的とした。
対立から協調へ――アメリカの進出に対抗する日露の接近
1904年から1905年にかけて戦われた日露戦争は、ポーツマス条約の締結によって日本の勝利に終わった。しかし、戦後の東アジア情勢は新たな局面を迎える。日本が獲得した南満州の権益や、ロシアが維持した北満州の権益に対し、当時「門戸開放・機会均等」を掲げて中国市場への参入を狙っていたアメリカ合衆国が、満州の鉄道買収や新線敷設を提案するなどして積極的に介入してきたのである。
日露戦争で疲弊していた日本とロシアは、満州における自国の権益をアメリカなどの第三国から守るため、これまでの対立関係を改めて協調路線へと舵を切ることとなった。また、日本の同盟国であるイギリスと、ロシアの同盟国であるフランスがすでに協調関係(英仏協商)にあり、さらに1907年に日仏協約が結ばれたことも、日露の接近を外交的に後押しした。こうして、日英仏露の四国が互いに関係を結ぶ結節点として、1907年7月に第一次日露協約が締結された。
四次にわたる協約の展開と勢力範囲の確定
日露協約は、国際情勢の変化に応じて十年間で四回にわたり改定・強化されていった。その内容は公表された「公約」と、勢力範囲を具体的に定めた「密約」の二本立てとなっていた点が特徴である。
第一次日露協約(1907年)では、清朝の領土保全と門戸開放を表向きに謳いつつ、密約において北満州および外蒙古(モンゴル)をロシアの、南満州および朝鮮を日本の勢力範囲と定めて相互に承認した。これにより、日本の韓国併合への道筋が国際的に保障されることとなった。
第二次日露協約(1910年)は、アメリカの国務長官ノックスが提唱した「満州鉄道中立化提案」を拒絶するために結ばれた。日露両国は満州における現状維持を確認し、権益が脅かされた場合には共同防衛行動をとることを合意した。この強固な連携を背景に、日本は同年、韓国併合を断行している。
第三次日露協約(1912年)は、前年に中国で勃発した辛亥革命に対応して結ばれた。清朝の動揺に乗じ、両国はそれまで曖昧だった内蒙古(南モンゴル)の境界画定を行い、東経116度線を境に東側を日本の、西側をロシアの勢力範囲と定めた。
第四次日露協約(1916年)は、第一次世界大戦の最中に締結された。大戦によって欧州列強が東アジアから後退する中、中国への影響力を強めるアメリカを警戒した両国は、中国が第三国の支配下に入らないよう協力することを誓い、事実上の軍事同盟へと発展させた。
ロシア革命による協約の崩壊とその歴史的意義
日露戦争という激突を経た二国が、わずか数年で「敵からパートナー」へと変貌を遂げた日露協約は、帝国主義時代における露骨な勢力均衡(バランス・オブ・パワー)外交の典型例であった。この協約体制により、日本はロシアという最大の背後脅威を排除し、朝鮮の植民地化や中国大陸への地歩を確実に固めることに成功した。
しかし、この強固な日露協調体制は、劇的な形で終焉を迎える。1917年、ロシア国内で革命(ロシア革命)が勃発し、ロマノフ朝の帝国が崩壊してレーニン率いるソヴィエト政権が誕生したのである。新政権は、旧ロシア帝国が列強と結んでいた帝政時代の「秘密外交」を暴露し、すべての不平等条約や密約の破棄を宣言した。これにより日露協約は一瞬にして無効化し、以後の日ソ関係は再び対立と警戒の時代へと逆戻りすることとなった。