義兵運動
【概説】
日本の朝鮮半島に対する植民地化政策に抗議し、朝鮮の民衆や軍人たちが展開した激しい反日武装闘争。特に1907年の第3次日韓協約に伴う韓国軍解散を機に、解散させられた元兵士が合流したことで近代的な戦闘能力を備え、朝鮮半島全土を巻き込む大規模な抵抗運動へと発展した。
初期の義兵運動とその背景
「義兵」とは、国家の危機に際して民衆が自発的に組織する非正規の武装集団を指す。朝鮮半島における近代の抗日義兵運動は、大きく三つの段階に分けられる。第一段階は、1895年の日清戦争後に起きた乙未事変(閔妃暗殺事件)および親日政権による断髪令を契機とした乙未義兵である。この時は伝統的な儒生(儒学者)たちが中心となって立ち上がったが、政府の鎮圧や国王(高宗)の解散勧告により比較的短期間で終息した。第二段階は、日露戦争後の1905年に結ばれた第2次日韓協約(日韓保護条約)に対する抵抗として蜂起した乙巳義兵であり、日本の外交権剥奪と保護国化に対する強い反発から、平民出身の義兵将も登場し始めた。
第3次日韓協約と韓国軍の解散
義兵運動がかつてない規模の激しい抗日戦争へと転化した第三段階が、1907(明治40)年の丁未義兵である。この年、高宗がオランダのハーグ万国平和会議に密使を送って日本の侵略を訴えたハーグ密使事件が発覚した。日本(統監府、初代統監・伊藤博文)はこれを口実に高宗を強制的に退位させ、同年7月に第3次日韓協約を締結して韓国の内政権を完全に掌握した。さらに8月1日には韓国軍の解散を強行した。これに激怒した韓国軍大隊長の朴星煥が自決を遂げると、憤激した兵士たちが漢城(現在のソウル)で日本軍と銃撃戦を展開し、これを皮切りに各地の鎮台兵も次々と武装蜂起した。
解散軍人の合流と闘争の全国化
解散させられた韓国軍兵士たちは武器を持ったまま地方へ散らばり、農民や儒生が組織していた従来の義兵部隊に合流した。これにより、義兵運動の性質は根本的に変化した。近代的な軍事訓練を受け、最新の兵器を持った正規兵が中核を担うようになったことで、義兵の戦闘力と組織力は飛躍的に向上したのである。指導層も従来の儒生だけでなく、元軍人や平民へと広がりを見せた。彼らは山岳地帯を利用したゲリラ戦を展開して日本の軍隊や警察、憲兵隊、さらには親日派の施設を次々と襲撃し、運動は朝鮮半島全土を巻き込む本格的な反日民族解放闘争へと発展した。
日本軍による徹底弾圧と独立運動への継承
事態を重く見た日本政府は、朝鮮駐箚軍(後の朝鮮軍)を増強して大規模な討伐作戦に乗り出した。特に1909(明治42)年に実施された「南韓大討伐作戦」では、義兵の活動が活発だった全羅道地方を中心に、村落の焼き討ちや民間人の虐殺を伴う徹底した焦土作戦と弾圧が行われた。近代的な装備と圧倒的な兵力を持つ日本軍の前に義兵は徐々に消耗し、1910(明治43)年の韓国併合前後には半島内での組織的な武装闘争は困難となった。しかし、生き残った義兵たちは国境を越えて満州やロシアの沿海州へと逃れ、後に日本の植民地支配に対して戦いを挑む独立軍へと再編成されていった。義兵運動は、その後の朝鮮独立運動の精神的・軍事的な源流として、両国関係史において極めて重要な意義を持っている。