韓国併合条約(韓国併合)

1910年、日本が韓国を完全に自国の領土(植民地)として併合した条約(歴史的出来事)は何か?
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【参考リンク】
韓国併合(Wikipedia)

韓国併合条約(韓国併合)

1910年

【概説】
1910年(明治43年)、日本が武力を背景に韓国政府に調印させ、大韓帝国を滅亡させて日本の完全な植民地とした条約。これにより朝鮮半島は日本の統治下に入り、1945年の第二次世界大戦敗戦まで続く苛烈な植民地支配の端緒となった。

日露戦争と韓国の保護国化

日本は日清戦争によって清の朝鮮半島に対する宗主権を排除したのち、ロシアとの間で半島の権益をめぐる対立を深めていった。1904年に日露戦争が勃発すると、日本は軍事力を背景に第1次日韓協約を結ばせ、韓国政府に日本人などの財政・外交顧問を置かせた。さらに、翌1905年のポーツマス条約でロシアから韓国に対する日本の優越権を認めさせるとともに、アメリカ(桂・タフト協定)やイギリス(第二次日英同盟)からも韓国支配の黙認を取り付けた。

列強の承認を得た日本は、1905年11月に第2次日韓協約(乙巳保護条約)を強要し、韓国の外交権を剥奪して完全な保護国とした。漢城(現在のソウル)には統監府が設置され、初代統監として伊藤博文が就任した。

ハーグ密使事件と強まる抵抗運動

韓国の皇帝・高宗は日本の保護国化に強く反発し、1907年にオランダのハーグで開かれていた第2回万国平和会議に密使を送り、日本の侵略の不当性を国際社会に訴えようとした(ハーグ密使事件)。しかし列強に無視され、事態を知った日本は高宗を強制的に退位させたうえで、第3次日韓協約を結ばせた。

これにより日本は韓国の内政権を完全に掌握し、韓国軍を解散させた。これに憤激した解散軍人が民衆と合流し、日本に対する大規模な武力抵抗運動である義兵闘争が朝鮮半島全土で激化することとなった。日本軍はこれを徹底的に弾圧し、数万人の犠牲者を出しながら鎮圧を進めていった。

伊藤博文暗殺と「韓国併合」の断行

義兵闘争が続く中、日本国内では韓国を完全に併合すべきだとする強硬論が高まっていた。併合の時期について慎重な姿勢を見せていた前統監の伊藤博文であったが、1909年10月、満州のハルビン駅で韓国の民族運動家である安重根によって暗殺された。この事件は、日本政府に併合を前倒しで断行させる決定的な契機となった。

1910年8月、第3代統監の寺内正毅と韓国首相の李完用との間で韓国併合条約が調印された。漢城市内を厳重な戒厳態勢下に置くという圧倒的な軍事的威圧のもとで結ばれたこの条約により、大韓帝国は滅亡し、国号は「朝鮮」と改められた。

朝鮮総督府の設置と武断政治の展開

併合直後、日本は統監府に代わって天皇に直隷する朝鮮総督府を京城(旧漢城)に設置した。初代総督には条約調印を主導した寺内正毅が就任した。朝鮮総督には現役の陸海軍大将が任命され、行政・立法・司法・軍事の全権を握る絶大な権力が与えられた。

総督府は、警察官と軍人(憲兵)を統合した憲兵警察制度を導入し、朝鮮民衆の言論・集会・結社の自由を完全に奪う苛烈な武断政治を展開した。また、同時に進められた土地調査事業によって多くの農民が土地を失い、経済的な収奪も進行した。こうした抑圧的な植民地支配は朝鮮民衆の強い反発を招き、やがて1919年の三・一独立運動という大規模な民族運動へと結実していくこととなる。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

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