安重根 (あんじゅうこん)
【概説】
初代韓国統監であった伊藤博文を、満州のハルビン駅で狙撃し暗殺した韓国の民族独立運動家。日本の韓国支配強化に対する抵抗運動に身を投じ伊藤暗殺を決行したが、皮肉にもこの事件は日本の韓国併合を加速させる契機となった。
抗日民族運動への傾倒と義兵闘争
1879年、李氏朝鮮の黄海道海州に生まれる。熱心なカトリック教徒であり、若き日は教育による民族の啓蒙や国債報償運動などの平和的な救国運動に取り組んでいた。しかし、日露戦争後の1905年に結ばれた第二次日韓協約(韓国保護条約)によって韓国が日本に外交権を奪われ、統監府が設置されて実質的な保護国化が進むと、次第に武力による抗日運動へと傾斜していった。
1907年、第三次日韓協約により韓国軍が強制的に解散させられると、これに反発した元兵士らが各地で蜂起し、激しい義兵闘争が展開された。安重根もロシア領の沿海州(ウラジオストク周辺)へ亡命して抗日義兵軍を組織し、「大韓義軍参謀中将」を名乗って豆満江流域などで日本軍とのゲリラ戦を展開した。
ハルビン駅での伊藤博文暗殺事件
1909年10月26日、満州のハルビン駅において歴史的な暗殺事件を引き起こす。標的は、初代韓国統監を辞任して当時は枢密院議長を務めていた伊藤博文であった。伊藤は満州や朝鮮半島の問題についてロシアのココツェフ蔵相と会談するためにハルビンを訪れていた。安重根は歓迎の群衆に紛れ込んで伊藤に接近し、至近距離から短銃で銃撃して暗殺した。安重根はその場でロシア官憲に逮捕され、日本の関東都督府に引き渡された。
法廷闘争と「東洋平和論」
旅順の関東都督府地方法院で行われた裁判において、安重根は自らを単なる暗殺者ではなく「韓国独立のための義兵軍参謀中将」であると主張し、日本の国内法(刑法)ではなく国際法上の捕虜として扱うよう求めた。また法廷において、伊藤博文が韓国の主権を奪い、東洋の平和を破壊しているとする「伊藤の罪状」を理路整然と弾劾した。
しかし、日本の裁判所は彼の主張を退けて死刑を宣告した。獄中において彼は、日中韓の三国が対等な立場で連帯し、共同の銀行や軍隊を創設して西洋列強の帝国主義に対抗するという壮大な構想「東洋平和論」の執筆に取り組んだが、完成を見ることなく1910年3月26日に処刑された。
歴史的意義と韓国併合への影響
安重根の目的は、伊藤博文を排除することで日本の侵略政策に打撃を与え、韓国の独立を回復することにあった。しかし現実には、日本国内の有力な政治家であった伊藤の死は、日本政府や世論を激昂させ、韓国に対する強硬論を一気に沸騰させた。当時の桂太郎内閣はこれを絶好の口実とし、事件の翌年である1910年8月、韓国併合(日韓併合)を断行した。彼の行動は、結果的に日本の植民地化政策を完成へと急がせる引き金となってしまったのである。
今日、韓国および北朝鮮において安重根は、身を挺して祖国の危機に立ち向かった「抗日独立運動の英雄(義士)」として最高の評価を受けている。一方で日本国内においては、明治の元勲を暗殺したテロリストという見方が存在しており、彼に対する評価の根本的な違いは、現在に至るまでの日韓の歴史認識問題における象徴的な事例の一つとなっている。