第3次日英同盟
【概説】
1911年に調印された、日本とイギリスとの間の軍事同盟条約の2回目の改定。日露戦争後の国際情勢の変化、特に日米対立の激化に伴い、イギリスの強い要望によってアメリカを共同防衛の交戦対象から除外した。有効期間は10年とされ、のちに日本が第一次世界大戦へ参戦する直接的な国際法上の根拠となった。
日米対立の顕在化と条約改定の背景
1905年に締結された第2次日英同盟以降、極東をめぐる国際情勢は大きく変化した。日露戦争の終結によってロシアの東アジア進出の脅威が後退した一方、新たに満州(中国東北部)の権益や門戸開放をめぐって日米間の対立が表面化する。さらに、アメリカ西海岸における日本人移民排斥運動も重なり、日米関係は急速に悪化していった。
このような状況下で、イギリスは建国以来の緊密な同盟国であるアメリカとの戦争に巻き込まれることを極度に警戒した。当時、イギリスはアメリカとの間で「一般仲裁条約」の締結に向けた交渉を進めており、日本との同盟義務が原因で対米戦争に引きずり込まれる事態を避けるため、同盟条約の改定を日本側に申し入れたのである。
「アメリカ除外」のメカニズムと機能変化
1911年7月13日にロンドンで調印された第3次日英同盟の最大の特徴は、第4条の新設にある。この規定では、「締約国の一方が第三国と一般仲裁条約を締結している場合、その締約国は当該第三国との戦争において、同盟に基づく参戦義務を負わない」と定められた。
これは実質的に、英米間で仲裁条約が締結された場合、日米戦争が発生してもイギリスは日本を支援する義務を負わない、すなわちアメリカを同盟の交戦対象から除外することを意味していた。これにより、日本にとっての日英同盟は、対米抑止力としての軍指示的価値を大きく減退させることとなったが、日本政府は孤立を避けるためにイギリスの要求を受け入れざるを得なかった。
第一次世界大戦への参戦と日英同盟の終焉
第3次日英同盟は実質的な軍事抑止力を低下させたものの、その紐帯は依然として強力であり、1914年に第一次世界大戦が勃発すると決定的な役割を果たすことになる。日本政府(第2次大隈重信内閣)は、イギリスからの形式的な参戦要請を好機と捉え、「日英同盟の情誼(じょうぎ)」を大義名分としてドイツに宣戦布告し、山東半島や南洋諸島へ進出した。
しかし、大戦後のワシントン会議(1921年〜1922年)において、東アジアにおける日・英・米の軍事対立を回避し、新たな協調外交秩序を構築しようとするアメリカの主導により、太平洋の現状維持を定めた四カ国条約が締結される。これに伴い、第3次日英同盟は発展的に解消される形で廃棄され、明治期から大正期にかけての日本外交の基軸であった日英同盟は、約20年の歴史に幕を閉じた。