中華民国

辛亥革命の結果、1912年に孫文を臨時大総統として建国が宣言された、アジア初の共和国の国号は何か?
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中華民国

1912年〜

【概説】
辛亥革命の結果、孫文を臨時大総統として1912年に南京で建国が宣言された、アジア初の共和政国家の国号。日本の近代史においても大陸政策の主要な対象となり、明治末期から昭和期にかけての日中関係や日本の外交方針に決定的な影響を及ぼした。

辛亥革命とアジア初の共和政国家誕生

1911年(明治44年)に勃発した辛亥革命により、長らく中国大陸を支配してきた清朝は崩壊の危機に直面した。翌1912年(明治45年)1月1日、革命派は南京において孫文を臨時大総統に推戴し、「中華民国」の建国を宣言した。これにより専制君主制が廃止され、アジアで初めてとなる共和政国家が誕生した。この革命運動には、日本に留学していた中国人学生や、宮崎滔天ら日本の大陸浪人・アジア主義者も深く関与しており、日本の思想界や政界にも大きな波紋を呼んだ。

袁世凱の台頭と日本の外交的対応

中華民国の成立直後、清朝の実力者であった袁世凱が革命派に妥協を申し入れ、清帝(宣統帝溥儀)の退位と引き換えに孫文から臨時大総統の地位を譲り受けた。これにより首都は南京から北京へと移り、袁世凱による独裁的な政権が樹立された。当時の日本政府(第2次西園寺公望内閣)は、当初は清朝を維持する立憲君主制を構想して干渉を試みたが、列強の動向や革命の進展を受けて方針を転換し、最終的に袁世凱政権を承認した。しかし、袁世凱が帝政復活を企図するなど政局は常に不安定であり、彼の死後は各地に軍閥が割拠する混乱期(軍閥時代)へと突入することになる。

第一次世界大戦と「二十一カ国要求」

第一次世界大戦が勃発すると、日本は日英同盟を理由に参戦し、中国大陸におけるドイツの拠点であった山東省の青島などを占領した。さらに1915年(大正4年)、第2次大隈重信内閣は袁世凱政権に対し、山東省の権益継承や南満州・東部内蒙古における日本の優越的地位の承認などを求める二十一カ国要求を突きつけた。中華民国政府はこれを受諾させられたが、中国国内では猛烈な反日感情が沸き起こり、後の五四運動(1919年)に代表される激しい抗日・民族運動へと繋がっていった。この出来事は、その後の日中関係の決定的な悪化を招く歴史的転換点となった。

国民政府の統一と日中戦争への道程

軍閥割拠の混乱が続く中、孫文の死後、中国国民党の指導者となった蔣介石は北伐(1926年〜1928年)を行い、中国の再統一を図った。1928年(昭和3年)、蔣介石は南京を首都とする国民政府を樹立し、名実ともに中華民国の統一政権を確立した。一方、日本国内では満蒙の権益を死守すべきとの強硬論が高まり、1931年(昭和6年)の満州事変、さらには1937年(昭和12年)からの日中戦争(支那事変)へと突入していった。中華民国は国共合作による抗日統一戦線を結成して激しく抵抗し、第二次世界大戦が終結する1945年(昭和20年)まで、日本と全面的な戦争状態を継続することとなった。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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