明治40年の恐慌
【概説】
日露戦争後の空前の企業勃興(起業ブーム)とその反動として、1907年(明治40年)1月に発生した我が国最初の本格的な戦後恐慌。株式市場の大暴落を端緒に銀行の取り付け騒ぎや企業の倒産が相次ぎ、日本経済に深刻な打撃を与えた。この恐慌を契機に、産業の整理統合と財閥による独占化が急速に進むこととなった。
日露戦後の「企業勃興」とバブルの崩壊
1904年から1905年にかけて戦われた日露戦争において、日本は賠償金(賠償領土)を獲得できなかった。しかし、戦争の勝利に伴う対外的地位の向上や、政府による積極的な戦後経営(軍備拡張や鉄道国有化などの産業振興策)を背景に、国内では楽観的な投資熱が急速に高まった。これにより、電気、紡績、鉄道、製糖などの分野を中心に新会社の設立や増資が相次ぐ企業勃興が巻き起こり、株式市場は実体経済を無視した異常な高騰を見せた。
しかし、1907年1月、この過熱した投機ブームは突如として終焉を迎える。東京および大阪の株式市場で株価が大暴落し、過剰な投機を行っていた新興の事業や企業は一気に資金難に陥った。これが「明治40年の恐慌」の始まりである。
アメリカの金融恐慌と日本への波及
国内の株式バブル崩壊に加え、同年の秋にはアメリカ合衆国で大規模な金融恐慌(1907年恐慌)が発生した。この世界的な金融不安定化は日本経済にダブルパンチを与えることとなった。
当時、日本の主要な外貨獲得源であった生糸や茶の対米輸出が激減し、国内の製糸業や関連産業は甚大な打撃を被った。また、ロンドンなどの国際金融市場における資金調達が困難となり、日本政府が進めていた外債返済や戦後経営の財政計画も大幅な狂いが生じることとなった。これにより、恐慌は単なる株式市場の混乱に留まらず、実体経済全般へと深刻化していった。
日本資本主義の構造変化と社会への影
この恐慌により、資金力の弱い新興中小企業や、彼らに過剰な融資を行っていた地方の小規模な銀行が次々と破綻・整理された。その一方で、豊富な資金力を持つ三井・三菱・住友・安田などの巨大財閥系銀行は、破綻した銀行や企業を吸収・系列化することで支配力を強化した。結果として、この明治40年の恐慌は、日本資本主義が自由競争の段階から、財閥を中心とする独占資本主義へと移行する重要な契機となったのである。
政治的・社会的な影響も大きかった。政府は財政の緊縮を余儀なくされ、国民に対しては勤倹貯蓄や思想の動揺を防ぐことを目的とした戊申詔書(1908年)を渙発し、地方改良運動などを通じて民心の引き締めを図っていくこととなった。