万朝報

黒岩涙香が創刊し、日露戦争前夜に主戦論に転じたため、幸徳秋水や内村鑑三らが退社することになった大衆新聞は何か?
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重要度
★★

【参考リンク】
萬朝報(Wikipedia)

万朝報 (よろずちょうほう)

1892年〜1940年

【概説】
明治中期に黒岩涙香によって創刊された日刊新聞。安価な価格設定と、スキャンダル報道や翻訳小説などの娯楽的要素で大衆の人気を博し、明治期最大の発行部数を誇った。のちに幸徳秋水ら知識人を擁して社会批判的な言論を展開したが、日露戦争直前に非戦論から主戦論へと転じた。

「万朝報」の創刊と大衆娯楽新聞としての成功

1892(明治25)年11月、ジャーナリストの黒岩涙香(くろいわ るいこう)によって『万朝報』が創刊された。当時の新聞界は、政党や政府の意見を代弁する「大新聞(おおしんぶん)」と、娯楽や社会事件を主に扱う「小新聞(こしんぶん)」に分かれていたが、万朝報は徹底した低価格(1部3厘)と大衆性で勝負を挑んだ。

とりわけ、黒岩涙香自身が手がけた『鉄仮面』や『厳窟王』などの翻案小説の連載、そして社会の著名人たちのプライベートを暴く「蓄妾実例(ちくしょうじつれい)」などの徹底したスキャンダル報道(プライバシー暴露)は、一般大衆の好奇心を強く刺激した。これにより、万朝報は東京でトップの発行部数を誇る人気紙へと急成長を遂げた。

知識人の結集と社会批判メディアへの脱皮

単なるイエロー・ペーパー(低俗紙)として出発した万朝報であったが、次第に社会の不条理を告発し、弱者を救済するという「社会改良」的な色彩を強めていった。この方針のもと、社主の涙香は優秀な論説委員を次々と招聘した。

特に、キリスト教思想家の内村鑑三、社会主義者の幸徳秋水堺利彦(枯川)らが記者として加わったことで、同紙の論説は一気に質を高めた。彼らは足尾銅山鉱毒事件における田中正造の闘争を強力に支援するなど、時の藩閥政府や資本家階級を鋭く批判し、当時の進歩的知識人や青年層から熱狂的な支持を集める論壇へと変貌した。

日露開戦をめぐる「非戦論」から「主戦論」への転向

1903(明治36)年、日露戦争の開戦をめぐって世論が緊迫する中、万朝報は当初、内村や幸徳らの主導のもとで「非戦(対露平和論)」の立場をとっていた。しかし、対露強硬を叫ぶ世論の主戦化が進むにつれ、部数の下落を恐れたこと、またナショナリズムの高揚に抗しきれなくなったことから、社主の黒岩涙香は急遽、社論を「主戦論」へと転換させた。

この転向に激怒し、また自らの信念を貫こうとした内村鑑三、幸徳秋水、堺利彦の3名は、ただちに万朝報を退社(退社広告を同紙に掲載)した。退社した幸徳と堺は、独自のメディアとして平民社を設立し、週刊『平民新聞』を創刊して徹底した非戦論・社会主義論を展開していくことになる。万朝報の転向劇は、明治後期の商業ジャーナリズムが「大衆のニーズ(主戦論への熱狂)」に屈し、国策追随へと舵を切った象徴的な事件として、日本のメディア史において極めて重要な意味を持っている。

物語・万朝報: 黒岩涙香と明治のメディア人たち

明治のメディア王・黒岩涙香の波乱の生涯を軸に、黎明期の新聞業界と熱き表現者たちの軌跡を克明に描き出す歴史評伝。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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