尾崎紅葉
【概説】
明治時代前期から中期にかけて活躍した小説家。山田美妙らと文学結社「硯友社」を結成して雑誌『我楽多文庫』を創刊し、のちに幸田露伴とともに「紅露時代」と呼ばれる文壇の黄金期を築いた。近代日本の言文一致運動の発展や後進の育成にも尽力したが、代表作『金色夜叉』の執筆半ばで早世した。
硯友社の結成と『我楽多文庫』
明治時代前期の日本文学は、坪内逍遥の『小説神髄』によって近代的な写実主義が提唱され、文学の近代化が模索され始めた時期であった。こうした中、帝国大学在学中であった尾崎紅葉は、1885(明治18)年に山田美妙、石橋思案らとともに日本初となる文学結社硯友社(けんゆうしゃ)を結成し、同人雑誌『我楽多文庫(がらくたぶんこ)』を創刊した。初期の紅葉は、逍遥の写実主義の影響を受けつつも、井原西鶴に代表される江戸時代の浮世草子や戯作文学の趣を色濃く残しており、その雅俗折衷の華麗な文体と人情の機微を描く作風は、当時の読者から絶大な支持を集めた。
「紅露時代」の現出と文体の模索
1889(明治22)年に読売新聞社に入社し、本格的な職業作家としての歩みを進めた紅葉は、『二人比丘尼色懺悔(ににんびくにいろざんげ)』などのヒット作を連発した。1890年代に入ると、理想主義的な作風で知られた幸田露伴とともに文壇の双璧と称されるようになり、この一時代は両者の名をとって「紅露時代」と呼ばれた。また、紅葉は単に古い文体や江戸情緒を墨守したわけではない。1896(明治29)年に発表した『多情多恨』では、二葉亭四迷や山田美妙らが先鞭をつけた言文一致体(「である」調)を採用し、登場人物の複雑な内面や心理描写を見事に表現してみせた。これは、近代日本語の文章表現を洗練させる上で大きな画期であった。
『金色夜叉』の歴史的背景と社会的影響
紅葉の代名詞とも言えるのが、1897(明治30)年から読売新聞で連載が開始された『金色夜叉(こんじきやしゃ)』である。主人公の間貫一と、富豪の息子に嫁いだお宮を巡る愛憎劇を描いた本作は、空前の大ベストセラーとなり、演劇化されて社会現象を巻き起こした。この作品が爆発的な人気を得た背景には、日清戦争後の急速な資本主義化の中で、伝統的な人情や倫理観が金銭(拝金主義)によって破壊されていくことに対する、当時の民衆の不安と共感があった。『金色夜叉』は単なる通俗的な悲恋小説ではなく、明治中期における急激な社会変容の歪みを浮き彫りにした同時代的な記録としての側面も持っている。
門下生の育成と文学史的意義
紅葉は自らの創作活動だけでなく、後進の育成にも並々ならぬ情熱を注ぎ、自らを慕う若手作家の面倒をよく見た。彼の門下からは、泉鏡花、徳田秋声、小栗風葉、小杉天外など、のちの浪漫主義や自然主義文学を牽引していく多くの俊英が輩出されている。紅葉自身は『金色夜叉』を未完のまま、1903(明治36)年に胃がんのため35歳の若さでこの世を去ったが、その門弟たちが大正時代にかけての日本文学の主流を形成していったことを踏まえれば、彼が近代日本文学史の土台形成に果たした役割と影響力は計り知れない。