歌舞伎座 (かぶきざ)
【概説】
1889(明治22)年、東京の木挽町(現在の東京都中央区銀座)に開設された日本を代表する歌舞伎専用の劇場。明治期の演劇改良運動を背景に、伝統芸能である歌舞伎を近代国家にふさわしい「国劇」へと高める象徴として建設された。西洋風の外観と和風の内装を併せ持つ、近代日本文化の発展を象徴する大劇場である。
演劇改良運動と歌舞伎座の誕生
明治政府が進めた急速な近代化(文明開化)の波の中で、江戸時代以来の「歌舞伎」は、俗悪で非近代的な娯楽であるとして批判の対象となった。これに対し、歌舞伎を欧米の演劇やオペラに匹敵する「高尚な芸術」へと高め、外国の賓客をもてなす場にふさわしいものにしようとする演劇改良運動が起こった。
1886(明治19)年には、末松謙澄や伊藤博文、井上馨らの主導で「演劇改良会」が結成される。この運動の潮流に乗り、ジャーナリストで劇作家でもあった福地源一郎(桜痴)や、実業家の千葉勝五郎らが中心となり、新たな殿堂としての劇場の建設が計画された。こうして1889(明治22)年11月、東京の木挽町に「歌舞伎座」が開場した。
和洋折衷の建築と伝統の「国劇」化
初代の歌舞伎座は、外観に洋風の煉瓦造りを採用しつつ、内部は日本の伝統的な木造ひのき造りとする、極めて特徴的な和洋折衷の構造を持っていた。これは、西洋の文明を受け入れつつも日本の伝統を守るという、当時の明治社会のあり方を視覚的に体現したものであった。
歌舞伎座の誕生に伴い、九代目市川団十郎、五代目尾上菊五郎、初代市川左團次ら(いわゆる「団菊左」)の名優が活躍し、歴史的事実に即した「活歴劇」や、近代的な新歌舞伎が上演された。これにより、歌舞伎は庶民の雑多な見世物から、日本の誇るべき「国劇」としての社会的地位を確立することとなった。1887年には、明治天皇が史上初めて歌舞伎を鑑賞する「天覧歌舞伎」が行われるなど、国家的な認知も急速に進んだ。
度重なる被災と再建の歴史
歌舞伎座は、その後の日本の近代史における激動の荒波を何度も被ることとなる。1911(明治44)年には純和風(桃山様式)の外観へと大改築が行われたが、1921(大正10)年の漏電による火災、さらには再建中の1923(大正12)年の関東大震災によって焼失した。
その後、1925(大正14)年に岡田信一郎の設計によって桃山様式の壮麗な劇場として再建されたものの、第二次世界大戦末期の1945(昭和20)年の東京大空襲によって再び大半を焼失した。戦後の1951(昭和26)年に復興を遂げ、さらに2013(平成25)年には最新の防災技術とオフィスタワーを併設した現在の第5期歌舞伎座へと建て替えられた。歌舞伎座は、明治以降の日本の文化保護と近代化の歩みを今に伝える、歴史的なシンボルであり続けている。