川上音二郎

自由民権運動の弾圧後に「オッペケペー節」で人気を博し、のちに壮士芝居を「新派劇」へと発展させた人物は誰か?
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重要度
★★★

【参考リンク】
川上音二郎(Wikipedia)

川上音二郎

1864〜1911

【概説】
明治時代に活躍した興行師・俳優。自由民権運動を背景とする壮士芝居の出身で、「オッペケペー節」で一世を風靡した。のちに新派劇を創始し、妻の貞奴とともに海外公演を成功させるなど、日本の近代演劇の発展に多大な貢献を果たした。

自由民権運動と「オッペケペー節」の流行

川上音二郎は、1864年に筑前国(現在の福岡県)で生まれた。青年期に上京して自由民権運動に身を投じたが、当時の明治政府は集会条例や保安条例などを制定して民権派への言論弾圧を強めていた。そこで川上は、警察の監視が厳しい政治演説の代わりに、演劇という娯楽の形式を借りて民権思想を民衆に訴える壮士芝居(書生芝居)を開始した。

1889年(明治22年)頃から、川上は陣羽織に日の丸の扇子という奇抜な出立ちで舞台に立ち、西洋の表面的な模倣(欧化主義)に走る上流階級や、民衆を顧みない藩閥政府の専制を痛烈に風刺した。この時歌われたのが「オッペケペー節」である。軽快なリズムと痛快な風刺を含んだこの歌は当時の大衆の心を激しく掴み、全国的な大流行を巻き起こした。これにより川上音二郎の名は広く知れ渡ることとなる。

日清戦争と新派劇の確立

1890年代に入ると、自由民権運動の退潮とともに政治的な壮士芝居も下火となっていったが、川上は単なる政治運動の延長にとどまらず、純粋な演劇としての質を高める方向へと転換を図った。その最大の転機となったのが、1894年(明治27年)に勃発した日清戦争である。

川上は、戦況をいち早く劇化して舞台にかける「戦争劇」を上演した。特に『壮絶快絶日清戦争』などの演目は、連日満員となる大成功を収めた。川上らの演劇は、江戸時代から続く伝統的な歌舞伎を「旧派」と呼ぶのに対し、同時代の社会風俗や時事問題を取り扱う新しい現代劇として「新派(新派劇)」と呼ばれるようになった。こうして川上は、日本の演劇界において旧来の枠組を打破する革新的な役割を担うこととなった。

欧米巡業と「マダム貞奴」の世界的旋風

川上音二郎の功績は国内にとどまらない。1899年(明治32年)、川上一座はアメリカでの興行へと旅立ち、その後ヨーロッパへと渡った。この海外公演において特筆すべきは、元芸妓であった妻の川上貞奴が女優として舞台に立ったことである。当時、日本の演劇界では女性が舞台に立つことは極めて稀であった。

1900年(明治33年)のパリ万国博覧会における公演では、異国情緒あふれる日本の舞台表現と、貞奴の美貌や情熱的な演技が欧米の文化人たちを魅了し、「マダム・サダヤッコ」として絶大な人気を博した。彼らの公演はピカソやロダンといった芸術家にも影響を与えたとされ、日本の演劇を海外に紹介した初の本格的な試みとして演劇史上に特筆される出来事となった。

日本演劇の近代化への貢献と歴史的意義

長きにわたる海外巡業を終えて帰国した川上は、欧米で学んだ近代演劇の技法を日本の舞台に持ち込んだ。1903年(明治36年)にはシェイクスピアの『オセロ』を日本を舞台に翻案して上演し、その後も『ハムレット』などの翻訳劇を次々と手掛けた。彼は自らの演劇を「正劇」と称し、旧弊な演劇慣習を排して、近代的な舞台美術や演出手法の導入に努めた。

川上音二郎は1911年(明治44年)にこの世を去るが、彼が切り拓いた新派劇は、のちに坪内逍遥や島村抱月らが推進する本格的な近代演劇運動(新劇)へと至る重要な架け橋となった。また、妻の貞奴を日本初の近代女優として開花させたことも含め、彼が日本の大衆演劇から近代演劇への過渡期において果たした興行師・演劇人としての歴史的意義は極めて大きい。

川上音二郎と貞奴 -明治の演劇はじまる

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伝統演劇の破壊者 川上音二郎

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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