大井憲太郎 (おおいけんたろう)
【概説】
明治時代の急進的な自由民権運動家、社会運動家。自由党左派の代表格として活動し、国内の民権運動が行き詰まるなかで朝鮮の近代化支援を通じた東アジアの変革を企てた「大阪事件」の首謀者。
フランス流民権思想の受容と自由党左派としての台頭
大井憲太郎は豊前国(現在の大分県)に生まれ、幕末から明治維新期にかけて蘭学、英学、そしてフランス学(仏学)を修めた。特にフランス法学者のボアソナードに師事したことで、自然法思想や天賦人権論に基づく急進的な民主主義思想を身につける。1881年に自由党が結成されるとこれに参加し、中江兆民らとともに同党の左派(急進派)を形成した。大井は、国会開設運動などの言論活動にとどまらず、民衆を組織した直接行動による社会変革を志向するようになっていった。
大阪事件とアジア主義の台頭
明治政府による徹底した民権派への弾圧や、1884年の秩父事件などの激化事件の失敗を経て、国内での民権運動は次第に行き詰まりを見せ始めた。こうした状況下で大井が着目したのが、隣国である朝鮮の情勢であった。大井は、朝鮮の開化派(親日改革派)である金玉均らを支援して朝鮮の近代化と清からの独立を促し、それを足がかりに東アジア全体を改革し、ひいては日本国内の藩閥政府を打倒しようと画策した。この計画は1885年、爆弾などの武器を携えて渡航しようとした段階で大阪にて発覚し、大井をはじめとする多数の民権運動家が逮捕された。これが大阪事件である。この事件は、日本の民権運動が対外的な進出・アジア主義的なナショナリズムと深く結びついていく転換点として、歴史的にきわめて重要な意味を持っている。
東洋自由党の結成と普通選挙運動への先駆
大日本帝国憲法発布にともなう大赦によって1889年に出獄した大井は、再び政治活動を開始した。1892年には東洋自由党を組織し、対外強硬論を唱える一方で、独自の社会政策的な主張を展開した。彼は単なる士族中心の民権論から脱却し、貧民の救済、小作人の地位向上、労働者の保護といった、より社会主義に近い労働運動や農民運動に接近していった。特に、日本で最初期となる普通選挙運動を提唱・組織したことは、後の大正デモクラシー期における普通選挙実現への先駆的な試みとして評価されている。