外交失策の挽回 (がいこうしっさくのばんかい)
【概説】
明治中期の自由民権運動において、民権派が政府に突きつけた「三大事件建白」の要求項目の一つ。外務大臣・井上馨が進めた極端な欧化政策と、国家主権を損なう譲歩を伴う条約改正交渉の失敗(外交失策)を厳しく批判し、対等な立場での条約改正を求めた主張である。
井上馨の妥協的交渉と世論の反発
明治政府にとって、幕末に結ばれた不平等条約の改正は悲願ともいえる最重要課題であった。1879年に外務卿(のち外務大臣)に就任した井上馨は、法制度の近代化を進めるとともに、いわゆる鹿鳴館外交に代表される極端な欧化政策を展開し、欧米諸国に対して日本が「文明国」であることをアピールしようとした。
しかし、井上が進めた条約改正の二国間交渉は、治外法権(領事裁判権)の撤廃と引き換えに、日本の裁判所に外国人判事の任用を認めることや、国内を外国人に開放する「内地雑居」を容認するなど、極めて妥協的かつ譲歩に満ちた内容であった。この交渉内容が報道機関によって漏洩すると、政府部内の法学顧問ボアソナードや農商務相の谷干城らが猛反発した。さらに、1886年に発生したノルマントン号事件によって領事裁判権の不条理さが浮き彫りになっていたことも重なり、世論は井上外交を「屈辱的外交」として激しく非難した。その結果、井上は1887年7月に条約改正交渉の延期を余儀なくされ、同年9月に辞任へと追い込まれた。
三大事件建白運動の展開と「国権」への傾斜
井上外交の挫折を受け、停滞していた自由民権運動(民権派)は再び活発化し、政府への反攻に出た。1887年10月、高知県の片岡健吉らが元老院に提出した建白書を端緒として、三大事件建白運動が巻き起こる。ここで掲げられた「三大事件」とは、地租軽減(内政)、言論・集会の自由の保障(民権)、そして井上外交の失敗を正すことを求めた外交失策の挽回(国権)であった。
「外交失策の挽回」という要求は、それまで「個人の権利」や「民主的な政治制度の確立」を主眼としていた自由民権運動が、対外的な国家主権の擁護、すなわち「国権」を重視する運動へと変質・融和していく契機となった。民権派は政府の弱腰外交を突くことで大衆のナショナリズムを刺激し、運動の急速な全国展開に成功したのである。
政府の弾圧と対外硬派の系譜
この大がかりな政治運動に対し、首相の伊藤博文率いる第1次伊藤内閣は、1887年12月に保安条例を制定し、即日施行する強硬策に出た。これにより、民権派の活動家ら500余名が皇居周辺の三里(約12キロメートル)外へと追放され、運動は一時的に鎮圧された。
しかし、ここで噴出した「外交失策の挽回」を叫ぶ対外強硬姿勢は、その後の大日本帝国憲法発布にともなう帝国議会の開設後も、初期議会において政府と激しく対立する対外硬派の底流として受け継がれることとなった。すなわち、この要求は単なる一時的な政府批判にとどまらず、近代日本における対外意識(ナショナリズム)の形成に決定的な影響を与えた象徴的な出来事であったといえる。