尾崎行雄 (おざきゆきお)
【概説】
明治から昭和中期にかけて日本の近代議会政治を牽引した政治家。日本初の総選挙から連続25回当選、通算63年間にわたり衆議院議員を務め、「憲政の神様」や「議会政治の父」と称された不世出の民主主義者。
自由民権運動の展開と「保安条例」による東京追放
尾崎行雄は相模国(現在の神奈川県)に生まれ、慶應義塾に学んだ後、福澤諭吉の推薦で新聞記者や新潟県会議員書記官などを経て政治の世界に入った。1882年、大隈重信が結成した立憲改進党の結党に参画し、自由民権運動の有力な論客として急速に頭角を現していく。
1887年、地租軽減、言論・集会の自由、条約改正交渉(外交失策)の挽回を明治政府に求めた三大事件建白運動が勃発すると、尾崎は運動の急先鋒として政府を激しく批判した。これに対し、危機感を募らせた第1次伊藤博文内閣は民権派を徹底的に弾圧するため、同年に保安条例を制定・施行。尾崎は皇居周囲三里(約12キロメートル)の範囲からの退去を命じられ、事実上の東京追放処分を受けた。この時の挫折と、その後の欧米への外遊経験が、彼の生涯にわたる徹底した議会主義と民主主義への信念を形作ることとなった。
第一次憲政擁護運動と「憲政の神様」の誕生
1890年の第1回衆議院議員総選挙において三重県から出馬して初当選を果たして以降、尾崎は日本の議会政治の中心に君臨し続けた。1898年に日本初の政党内閣である第1次大隈重信内閣(隈板内閣)が成立すると文部大臣に就任したが、歴史的な「共和演説事件」の舌禍により辞任を余儀なくされた。その後は立憲政友会の結党に参加し、東京市長(1903~1912年)を務めるなど、行政・地方自治の分野でも大きな足跡を残した。
尾崎の名を歴史に不朽のものとしたのが、1912年(大正元年)に勃発した第一次憲政擁護運動である。藩閥(長州閥)の力を背景に成立した第三次桂太郎内閣に対し、尾崎は立憲国民党の犬養毅らとともに「閥族打破・憲政擁護」を掲げて激しく抵抗した。帝国議会の壇上で尾崎が桂首相に対し、「常に口を開けば直ちに忠愛を唱え、天子を以て我が身の防壁とし、詔勅を以て弾丸に代えて政敵を倒さんとするもの」と痛烈に糾弾した演説は、大正デモクラシーの幕開けを告げる象徴的な名演説として語り継がれている。この運動によって桂内閣を総辞職に追い込み(大正政変)、国民から「憲政の神様」と仰がれるようになった。
軍国主義への抵抗と戦後の平和主義
昭和期に入り、軍部が台頭してファシズムへの傾斜を強めていくなかでも、尾崎の自由主義・国際協調主義の信念は揺らがなかった。1930年代以降、軍部や右翼から命を狙われる危険にさらされながらも、満州事変や日中戦争などの武力拡張方針、さらには治安維持法に対して毅然と批判を続けた。第二次世界大戦中の1942年に行われた「翼賛選挙」においては、東条英機首相あてに公開質問状を送るなどの徹底した言論闘争を展開し、不敬罪で起訴される弾圧を受けたが、最後まで非戦と民主主義の姿勢を貫き通した。
敗戦後は、いち早く世界連邦運動の推進など世界平和の実現に尽力した。1953年の総選挙で落選するまで、議員在籍63年という日本の議会史上、前人未到の記録を樹立した。尾崎の歩んだ生涯は、日本の近代議会政治が誕生し、一度は軍国主義によって崩壊しながらも、戦後に再建されるまでの歴史そのものを体現しており、その筋の通った姿勢は今なお高く評価されている。