領事裁判権(治外法権)
【概説】
江戸時代末期から明治時代にかけて、日本が欧米列強と結んだ不平等条約に含まれていた、日本国内における外国人の犯罪を日本の法律ではなくその国の領事が裁く特権のこと。安政の五カ国条約によって認められたものであり、日本の国家主権を著しく侵害するものであった。明治政府の悲願であった条約改正交渉の末、1894年に陸奥宗光が調印した条約によって完全撤廃が実現した。
国家主権を侵害する「不平等」の本質
領事裁判権とは、ある国家に在留する外国人が被疑者・被告人となった民事・刑事事件において、滞在国の法律や裁判権に服さず、その外国人の本国から派遣された領事が自国の法律に基づいて裁判を行う特権である。一般的には「治外法権」と同義に用いられることが多いが、厳密には治外法権という概念の一部を構成する具体的な制度を指す。
近代的な国際法においては、国内のいかなる人間に対しても自国の法律が適用される「属地主義」が国家主権の基本原則である。しかし、19世紀の欧米列強は、近代的な法制度が未発達と見なしたアジアやアフリカ諸国に対してはこの原則を認めず、自国法による領事裁判権を一方的に押し付けた。これは法的な平等を欠く明確な主権侵害であり、対象国を半植民地的な地位に置く屈辱的な制度であった。
安政の五カ国条約による承認とその背景
日本において領事裁判権が初めて認められたのは、江戸幕府が1858年(安政5年)にアメリカと結んだ日米修好通商条約をはじめとする安政の五カ国条約においてである。当時の日本は近代的な法典を備えておらず、過酷な拷問などの前近代的な刑罰制度が残存していた。
アメリカの駐日総領事であったタウンゼント・ハリスをはじめとする欧米の外交官は、自国民をそうした日本の非近代的な司法手続きから保護するという名目で領事裁判権の承認を強硬に要求し、幕府側も国際法の知識に乏しかったためこれを容認してしまった。同時期に協定関税制(関税自主権の喪失)も受け入れており、日本は欧米列強に対して著しく不利な不平等条約体制下への編入を余儀なくされたのである。
ノルマントン号事件と沸騰する世論
領事裁判権の存在は、日本国内で外国人が犯罪や事故を起こしても、日本の警察や裁判所が十分に介入・処罰できないことを意味した。領事による裁判は往々にして自国民に対して極めて寛大であり、日本人が被害者となる事件において加害者の外国人が無罪となったり、極めて軽い刑で済まされたりする事例が多発した。
その理不尽さが日本の世論を最も激昂させたのが、1886年(明治19年)に発生したノルマントン号事件である。イギリス船籍の貨物船ノルマントン号が紀伊半島沖で沈没した際、イギリス人船長や乗組員は全員脱出した一方で、日本人乗客25名は見殺しにされ全員水死した。しかし、神戸のイギリス領事館で行われた海難審判や領事裁判では、船長に対する刑罰は極めて軽いもの(禁錮3ヶ月)にとどまった。この事件は、領事裁判権がいかに日本人の生命と人権を軽視するものであるかを浮き彫りにし、条約改正の即行を求める国民運動を爆発させる決定的な契機となった。
法典編纂と悲願の条約改正
明治政府にとって、領事裁判権の撤廃を含む条約改正は、日本の独立と近代国家としての威信を取り戻すための最重要課題であった。岩倉使節団による予備交渉に始まり、井上馨、大隈重信、青木周蔵などの歴代外務大臣が交渉に当たったが、列強は「日本の法典編纂が未完成であること」を理由に頑なに拒み続けた。井上馨は極端な欧化政策を進め、外国人裁判官の任用を条件に改正を目指したが、激しい国内の反発を浴びて辞任に追い込まれた。
その後、大日本帝国憲法の制定(1889年)や、民法・刑法などの近代法典の整備が着実に進んだことで、欧米側も日本の司法制度を近代的なものとして評価するようになった。そして1894年(明治27年)、外務大臣・陸奥宗光の尽力により、イギリスとの間で日英通商航海条約が調印され、ついに領事裁判権の完全撤廃が合意された。この条約は1899年(明治32年)に施行され、他国とも順次同様の改正が行われた。これにより日本は、悲願であった国家主権の部分的完全回復を果たし、列強と対等な近代国家としての大きな一歩を踏み出したのである。