外国人裁判官(外国人判事の任用) (がいこくじんさいばんかん)
【概説】
明治中期の条約改正交渉において、外務大臣・井上馨が領事裁判権の撤廃と引き換えに提示した、日本の裁判所に外国人の裁判官を任用するという妥協案。国家の根幹である司法権を侵す「売国的」な譲歩であるとして政府内外から激しい反発を招き、井上外交が挫折する最大の要因となった。
条約改正交渉の膠着と「外国人判事任用」の浮上
幕末に結ばれた不平等条約の改正は、明治政府にとって悲願の国家課題であった。1885(明治18)年に初代外務大臣に就任した井上馨は、いわゆる鹿鳴館外交に象徴される極端な欧化政策を推進し、日本が欧米並みの「文明国」であることをアピールして改正交渉を有利に進めようとした。
1886(明治19)年から東京で開かれた条約改正会議において、井上は最大の懸案であった領事裁判権(治外法権)の撤廃を強く迫った。しかし、欧米列強は日本の法制度や裁判制度が未整備であることを理由にこれを拒絶。妥協を模索する井上に対し、イギリスやドイツなどは「領事裁判権を撤廃する代償として、日本の裁判所に外国人判事を任用し、外国人被告が関わる裁判に参画させること」を要求した。井上はこの条件を呑む形で、大審院を含む日本の裁判所に多数の外国人裁判官(外国人判事)を任用するという改正案を提示するに至った。
「主権侵害」への猛反発と政府内の亀裂
この外国人判事任用案は、日本の主権を著しく侵害する「国家の恥辱」であるとして、各方面から凄まじい反発を巻き起こした。最初に声を上げたのは、フランスから招聘されていたお雇い外国人の法学者ボアソナードであった。彼は、近代国家において司法権は主権そのものであり、他国の干渉を許す判事任用案は日本の独立を損なうとして、時の首班である伊藤博文首相や井上に痛烈な意見書を提出した。
さらに政府内部からも批判が噴出した。農商務大臣の谷干城は、欧州視察から帰国後、井上の条約改正案および外国人に対して国内の居住や営業を自由化する「内地雑居」の導入に強く反対し、辞表を提出して抗議した。また、司法大臣の山田顕義や大審院長の児島惟謙らも、司法権の独立や憲法制定(当時は草案作成中)の精神に反するとして、この妥協案を厳しく批判した。
世論の沸騰と井上外交の挫折
井上の条約改正案の全貌が民間や新聞報道によって外部に漏洩すると、反対運動は一気に国民的規模へと拡大した。当時、退潮気味であった自由民権運動は、この問題(対等条約の締結)を格好の追及材料として再結集した。地租軽減や言論の自由と並び、この屈辱的な条約改正への反対を掲げた三大事件建白運動が展開され、政府は激しい世論の批判に晒されることとなった。
事態の紛糾を収拾できなくなった井上馨は、1887(明治20)年7月に条約改正交渉の中止(延期)を発表し、同年9月には外務大臣を辞任せざるを得なくなった。この「外国人裁判官の任用」をめぐる一連の騒動は、安易な欧化主義や妥協による条約改正の限界を示すこととなり、その後の大隈重信、青木周蔵、そして最終的に不平等条約の改正(領事裁判権の撤廃)を成し遂げる陸奥宗光の交渉方針に大きな教訓を与えることとなった。