袁世凱

高校日本史的重要度
★★★

【参考リンク】
袁世凱(Wikipedia)

袁 凱

「袁」の書き方 「凱」の書き方

袁世凱 (えんせいがい)

1859年〜1916年

【概説】
清末から中華民国初期にかけて活躍した中国の軍人・政治家。1884年の甲申事変において、朝鮮に駐留する清国軍を率いて日本の支援する独立党のクーデターを武力鎮圧した。その後も朝鮮半島における清国の権益拡大を図って日本と激しく対立し、後年には中華民国の初代大総統として日本の「二十一カ条の要求」を受諾するなど、近代日中関係史において極めて重要な役割を果たした人物である。

甲申事変における迅速なクーデター鎮圧

19世紀後半、李氏朝鮮の宮廷では、清国との関係を重視する保守派の事大党と、日本の明治維新をモデルに近代化を目指す急進派の独立党(開化派)とが激しく対立していた。1884年(明治17年)、清国が清仏戦争で苦戦しているのを好機と見た金玉均(きんぎょくきん)ら独立党は、日本公使・竹添進一郎の軍事支援を取り付け、クーデターを起こして政権を奪取した。これが甲申事変(こうしんじへん)である。

この時、朝鮮の首都・漢城(現在のソウル)に駐留していた清国軍の指揮官が若き日の袁世凱であった。彼は事態の急変に対して本国からの指示を待つことなく、即座に約1500の兵を率いて王宮を包囲・攻撃した。数に劣る日本軍は撤退を余儀なくされ、独立党の政権はわずか3日で崩壊した。袁世凱の迅速かつ果断な軍事行動により、朝鮮半島における日本の影響力拡大の目論見は完全に挫折させられたのである。

朝鮮総督としての君臨と日清対立の激化

甲申事変の鎮圧後、袁世凱はその功績を李鴻章(りこうしょう)に高く評価され、「駐剳朝鮮総理交渉通商事宜(ちゅうさつちょうせんそうりこうしょうつうしょうじぎ)」という要職に任命された。これは事実上の「朝鮮総督」とも言える絶大な権限を持つ地位であり、袁世凱はその後約10年間にわたって朝鮮の政治や外交を強力に統制した。

彼の最大の目的は、朝鮮に対する清国の宗主権を強化し、他国、特に日本の進出を食い止めることであった。袁世凱は親清派の政権を支援し、日本の経済的・政治的影響力を徹底的に排除しようと図った。この袁世凱による強硬な朝鮮属国化政策は、朝鮮半島を自国の「利益線」と見なす日本との間に抜き差しならない緊張を生み出し、やがて1894年(明治27年)の日清戦争へと至る決定的な要因となった。

北洋軍閥の形成と中華民国大総統への就任

日清戦争で清国が敗北すると袁世凱は一時失脚するが、やがて近代的な西洋式軍隊である「新軍」の創設を任され、軍事力を背景に再び権力の座に返り咲いた。彼が育て上げた強力な軍閥は北洋軍閥(ほくようぐんばつ)と呼ばれ、清朝末期の政治において最大の武力集団となった。

1911年(明治44年)に辛亥革命が勃発すると、清朝から反乱鎮圧を命じられた袁世凱は、武力を背景に巧みな政治的駆け引きを行った。彼は革命派の孫文らと裏で交渉し、清朝の皇帝(宣統帝溥儀)を退位させることと引き換えに、自らが中華民国の臨時大総統(後に正式な大総統)の地位に就くことに成功した。こうして、彼は中国の最高権力者へと上り詰めたのである。

「二十一カ条の要求」の受諾と帝政復活の挫折

大総統となった袁世凱に対して、日本は1915年(大正4年)、第一次世界大戦に乗じて中国における権益拡大を狙った二十一カ条の要求を突きつけた。日本の武力威圧を前に、袁世凱の政府はやむなくこの要求の大半を受諾した。しかし、これは中国国内に猛烈な反日感情と、軟弱な袁世凱政権に対する激しい怒りを引き起こした。

さらに、権力欲に駆られた袁世凱は、自らが皇帝に即位して「中華帝国」を建国しようと企てた(帝政復活運動)。これに対しては、革命派のみならず自らの配下であった北洋軍閥の部将たちまでもが猛反発し、全国各地で反乱が勃発した(護国戦争)。日本や欧米列強からも見放された袁世凱は、1916年に帝政の取り消しを余儀なくされ、その直後に失意のうちに病死した。彼の死後、中国は軍閥が各地で割拠して内戦を繰り広げる、泥沼の軍閥時代へと突入することとなる。

最終更新:
2026年8月27日 @ 23:24

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