大新聞

明治時代、主に知識人や士族に向けて、政治に関する論説を中心に掲載した硬派な新聞を総称して何というか?
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重要度
★★

大新聞 (おおしんぶん)

1870年代〜1880年代

【概説】
明治初期から中期にかけて刊行された、政治論説(政論)を中心に掲載する硬派な新聞の総称。主に知識人や旧士族層を読者対象とし、自由民権運動期には言論戦の主要な舞台となった。

政論の府としての大新聞と民権運動

明治初期、言論による政治闘争が活発化するなかで、独自の政治的主張(政論)を掲げる新聞が登場した。これが大新聞である。大新聞は、社説にあたる「論説」を最も重視し、政府の政策に対する批判や、自派の政治思想を世論に訴えかける機関紙的な役割を果たした。

特に1870年代半ばから1880年代前半にかけての自由民権運動の昂揚期には、各紙の言論戦が激化した。板垣退助らの自由党に近い『朝野新聞』や、大隈重信の立憲改進党に近い『郵便報知新聞』などが民権派の論調を張ったのに対し、政府を擁護する『東京日日新聞』などは「御用新聞」と呼ばれ、これらと激しく対立した。政府は新聞紙条例(1875年)などの言論弾圧法規を制定して大新聞の反政府的言論を厳しく取り締まったが、記者たちは筆禍を恐れず健筆を振るった。

小新聞との対比と読者層の分化

大新聞の大きな特徴は、同時代に登場した小新聞(こしんぶん)との対比において顕著に現れる。大新聞が漢文調の難解な文章を用い、ルビ(ふりがな)をほとんど振らずに政治・経済などの硬派なニュースを扱ったのに対し、小新聞(『読売新聞』や『仮名読新聞』など)は平仮名交じりの平易な文章にルビを多用し、市井の事件や娯楽、人情話などの軟派な記事(雑報)を多く掲載した。

この違いはそのまま読者層の違いを反映していた。大新聞の講読料は高価であり、主な読者は官僚、知識人、旧士族などのエリート層に限られていた。これに対し、安価な小新聞は一般庶民に広く読まれ、日本の大衆メディアの源流となった。このように、明治初期の新聞界は大新聞と小新聞という二極化された構造を持っていた。

商業新聞への変容と大新聞の終焉

激しい政治論戦を展開した大新聞であったが、1890年に帝国議会が開設され、政治の主舞台が議会へと移行すると、その役割に変化が生じた。過度に政治的な論説に偏重した新聞は読者から飽きられ、経営的に行き詰まるようになった。また、自由民権運動の退潮にともない、各紙は特定の政党や主義主張から離れざるを得なくなった。

その結果、明治20年代以降は、政治的偏向を廃して事実の迅速な報道や広告収入を重視する商業新聞(『大阪朝日新聞』や『大阪毎日新聞』など)が台頭することとなる。これにより、大新聞が備えていた「政論中心」という特徴と、小新聞が備えていた「大衆性」が融合し、現代につながる近代的な情報紙へと新聞全体が一本化されていった。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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