写実主義
【概説】
明治時代前期に起こった近代文学の思潮。江戸時代から続く勧善懲悪的な文学や荒唐無稽な物語を否定し、人間の心理や社会のありのままの姿を描こうとする近代文学の立場。日本の近代文学が独立した芸術として確立するための重要な出発点となった。
江戸戯作文学の否定と近代文学の幕開け
明治時代初期の日本文学界は、依然として江戸時代後期の滝沢馬琴らに代表される戯作文学の影響下にあり、読者の興味を惹くための荒唐無稽な筋立てや、「勧善懲悪」の道徳観が絶対的な価値基準として支配していた。また、自由民権運動の隆盛を背景に流行した政治小説も、特定の政治思想を啓蒙・宣伝するための手段として小説を用いており、純粋な芸術性には乏しかった。
しかし、文明開化とともに西洋の近代思想や文学理論が流入すると、文学そのものの自律性や、人間の内面をありのままに描くことの重要性が認識され始める。教訓やイデオロギーの従属物ではなく、人間社会の真実を客観的に観察し描写する新しい文学のあり方が模索されたのが、日本における写実主義の胎動であった。
坪内逍遥の『小説神髄』による理論的確立
日本の写実主義を最初に理論づけ、決定的な方向性を与えたのは坪内逍遥である。逍遥は1885年(明治18年)から翌年にかけて文学評論『小説神髄』を著し、「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ」と高らかに宣言した。
ここでいう「人情」とは人間のありのままの心理や感情の機微を指し、「世態風俗」とは現実の社会情勢を意味する。逍遥は、文学の真の目的は読者に道徳的教訓を与えることではなく、人間の内面や現実の社会をありのままに、客観的かつ写実的に描き出すことにあると説いた。これにより、日本の文学は初めて近代的な芸術としての確固たる理論的根拠を獲得したのである。
二葉亭四迷の『浮雲』と言文一致運動
逍遥の理論に深く共鳴し、それを実際の創作において見事に実践したのが二葉亭四迷である。彼は1887年(明治20年)から小説『浮雲』を発表した。この作品は、近代的な自我に目覚めながらも要領よく社会に適応できない青年・内海文三の屈折した心理や、彼を取り巻く人々の俗物的な姿を極めてリアルに描いており、日本初の近代写実小説と高く評価されている。
さらに四迷は、人間の微細な心理や現実の風俗を正確に表現するためには、従来の古めかしい文語体では不十分であると痛感した。そこで、日常の話し言葉に近い文体で文章を綴る言文一致体(「〜だ」調)を創始したのである。対象をありのままに描こうとする写実主義の追求は、必然的に日本語の表現方法そのものの革新、すなわち言文一致運動をも強力に推し進めることとなった。
日本近代文学における歴史的意義と展開
写実主義の登場は、日本の文学を単なる娯楽や思想的道具から、独立した芸術へと昇華させる決定的な転換点となった。逍遥や四迷の試みは、尾崎紅葉や山田美妙らが結成した硯友社(けんゆうしゃ)の活動へと受け継がれ、彼らは擬古典主義的な文体の中にも写実的な風俗描写を取り入れた。
さらに時代が下ると、人間の情念や個性の解放を謳う浪漫主義を経て、明治30年代後半以降には写実主義の客観描写を極限まで押し進めた自然主義文学へと接続していく。自然主義は人間の醜悪な面や社会の暗部をも赤裸々に描くことで一時代を画するが、その源流には間違いなく写実主義の手法が存在している。このように、写実主義はその後のあらゆる近代文学思潮の前提となる、日本文化の近代化を象徴する極めて重要な概念である。