硯友社 (けんゆうしゃ)
【概説】
明治中期の日本において、尾崎紅葉や山田美妙らによって結成された日本初の本格的な文学結社。機関誌『我楽多文庫』を発刊し、それまでの戯作文学から近代文学への過渡期における写実主義の推進や言文一致運動の普及に大きく貢献した。紅葉を中心とする強固な結束力により、明治20年代の文壇を主導したグループである。
結成の背景と『我楽多文庫』の創刊
明治維新以後の日本は、急速な西洋化(文明開化)にともない文学のあり方も大きな転換期を迎えていた。1885(明治18)年、坪内逍遥が『小説神髄』を著して従来の勧善懲悪的な絵草紙・戯作を批判し、写実主義を提唱した。この同年に、東京大学予備門の学生であった尾崎紅葉、山田美妙、石橋思案、丸岡九華らが近代文学の創造を目指して結成したのが「硯友社」である。
彼らは同人誌『我楽多文庫』を創刊し、回覧雑誌の形式からスタートした。当初は江戸時代の軽妙な戯作文学の影響を色濃く残していたが、次第に写実主義を意識した創作活動へと移行した。同誌は若者層を中心に圧倒的な支持を獲得し、やがて公刊されて明治20年代の日本の文壇に多大な影響を与える存在となった。
言文一致運動と近代文体の確立
硯友社が日本文学史上において果たした極めて重要な役割の一つが、言文一致運動の展開である。それまでの日本の書き言葉は古風な漢文調や擬古文調(文語体)が主流であったが、口語に近い自然な表現(口語体)による小説の執筆が模索されていた。
硯友社の中心メンバーであった山田美妙は、口語体小説『武蔵野』において「〜です・〜ます」調の文体を試み、若手作家たちに衝撃を与えた。一方、主宰の尾崎紅葉は、井原西鶴に代表される元禄文学の雅俗折衷文体から出発しつつも、のちに「〜である」調を用いた言文一致小説『多情多恨』を発表し、近代小説における標準的な描写文体を確立する礎を築いた。これらの模索は、二葉亭四迷の試みと並んで、近代日本語の形成における重要なマイルストーンとなった。
硯友社による文壇の支配と終焉
1889(明治22)年に山田美妙が脱退した後は、尾崎紅葉が絶対的な主宰者として硯友社を統率した。紅葉は『紅葉山人』と呼ばれ、その周囲には泉鏡花、小栗風葉、徳田秋声などの優れた若手が弟子として集まり、一種の徒弟制度(師弟関係)に基づく強固な一大派閥が形成された。これは近代日本における「文壇」という独自の作家社会・学閥のようなシステムの源流となった。
彼らは『金色夜叉』をはじめとする大衆的人気作を連発し、明治20年代の文芸界を支配したが、その強固な結びつきは次第に形式主義やマンネリ化を招くこととなった。やがて明治30年代に入ると、社会の現実を冷徹に見つめる「自然主義文学」や、個人の内面を重視する「ロマン主義文学」が台頭し、硯友社の文学は旧弊なものとして批判されるようになった。1903(明治36)年、主宰者である尾崎紅葉の死去にともない、硯友社は事実上解散し、その歴史的役割を終えた。