工部美術学校 (こうぶびじゅつがっこう)
【概説】
1876(明治9)年に工部省が設立した、日本初の官立美術学校。イタリアから招聘したお雇い外国人を教師陣に据え、西洋の本格的な絵画・彫刻・建築技術の組織的教育を行った。明治初期の「文明開化」期における極端な欧化主義を象徴する教育機関である。
「工部省」が美術学校を設立した背景
明治政府において、美術は当初「芸術」としてではなく、近代化を推進するための「実用的な技術」として認識されていた。そのため、学校の設立・管轄は教育を司る文部省ではなく、産業やインフラ開発を担う工部省が行った。当時の政府は、西洋的な絵画の写実技法(遠近法や陰影法)を、軍事的な地図作成や建築・機械の製図、あるいは万国博覧会に出品して外貨を稼ぐための工芸品デザインに不可欠な基礎技術とみなしていたのである。このように、実利的な産業振興(殖産興業)と深く結びつく形で、日本初の本格的な美術教育がスタートした。
イタリア人教師の指導と洋画界への貢献
工部美術学校の最大の特徴は、当時芸術の先進国と目されていたイタリアから一流の美術家を招聘した点にある。特に絵画科のアントニオ・フォンタネージ、彫刻科のヴィンチェンツォ・ラグーザらの指導は徹底していた。フォンタネージはバルビゾン派に属する優れた画家であり、日本の学生たちに西洋の古典的な油彩画や写生(デッサン)の基礎を叩き込んだ。彼の門下からは、のちに明治の近代洋画界を牽引することになる浅井忠や小山正太郎などの優れた人材が輩出され、彼らが日本の洋画の先駆者となった。
美術界のパラダイムシフトと廃校への道
順調に見えた工部美術学校であったが、1878年にフォンタネージが病気のために帰国すると事態は急変する。後任教師の指導力不足に加え、1880年代に入ると政府の財政難を理由とする事業縮小の波が押し寄せた。さらに決定打となったのが、美術界における「国粋主義(日本美術の再評価)」への転換である。お雇い外国人のアーネスト・フェノロサやその弟子の岡倉天心らは、急速な洋風化の中で衰退していた日本画の価値を唱え、西洋一辺倒の美術政策を強く批判した。こうした「西洋美術から伝統美術へ」という世論と政策の逆風を受け、工部美術学校は1883年にわずか7年で廃校へと追い込まれた。その後、日本の美術教育の主流は1887年に設立された東京美術学校(当初は日本画のみ)へと移り、洋画が公的な教育の場に復権するまでには、1896年の洋画科設置(黒田清輝の指導)を待つ必要があった。