法律の範囲内
【概説】
大日本帝国憲法において、臣民(国民)の権利に対して付された、国家権力による法的な制限を容認する留保条項。言論、出版、集会、結社、信教の自由などの基本的人権を保障しつつも、それらが法律によって制限され得ることを明記した憲法上の文言である。
「恩賜の権利」と憲法上の位置づけ
1889年(明治22年)に発布された大日本帝国憲法は、東アジア初の近代憲法であったが、その基本的人権(当時は「臣民ノ権利」と呼ばれた)の保障には大きな特徴があった。西欧の近代憲法が「人権は天賦の権利(自然権)であり、国家に先立って存在する」と捉えるのに対し、明治憲法における権利は、主権者である天皇から臣民に与えられた「恩賜の権利」と位置づけられたのである。
そのため、憲法第2章に掲げられた「臣民権利義務」の各条項の多くには、「法律の範囲内において」あるいは「法律によらなければ」という制限が設けられた。例えば、信教の自由(第28条)や、言論・著作・印行・集会・結社の自由(第29条)は、すべて「法律の範囲内」においてのみ保障されるものであった。これは、議会が制定した法律によって、これらの自由をいつでも制限・縮小できることを意味していた。
治安立法と同調する抑圧のシステム
この「法律の範囲内」という留保条項は、近代日本の治安維持政策において極めて重要な役割を果たした。政府は憲法に違反することなく、法律の制定という合法的手段によって、社会運動や反政府運動を抑え込むことが可能となったからである。
その代表例が、1900年(明治33年)に制定された治安警察法や、1925年(大正14年)に制定された治安維持法である。特に治安維持法は、国体の変革(天皇制の否定)や私有財産制度の否認を目的とする結社を厳しく取り締まり、昭和期における社会主義者、共産主義者、さらには自由主義的な知識人や宗教団体への弾圧の強力な法的根拠となった。憲法が国民の権利を国家権力から守る「防壁」として機能せず、むしろ国家が国民を統制するための「枠組み」として作用した象徴が、この「法律の範囲内」という文言であった。
日本国憲法における「基本的人権」への転換
大日本帝国憲法における「法律の範囲内」という制限が、第二次世界大戦時の軍国主義や全体主義を許す一因となったという反省から、戦後の日本国憲法(1946年公布)では、人権の考え方が根本的に改められた。
日本国憲法第11条および第97条において、基本的人権は「侵すことのできない永久の権利」として保障され、国家権力であっても法律によってみだりに制限することはできないとされた。憲法上の権利を制限できるのは、他者の人権との衝突を調整するための最小限の基準である「公共の福祉」(第12条、第13条など)に限定されることとなり、近代民主主義国家にふさわしい人権保障のあり方へと180度の転換を遂げたのである。