本郷弥生町
【概説】
1884年に新しい様式の土器が発見され、「弥生時代」「弥生土器」という名称の由来となった東京都の地名。それまでの縄文土器とは異なる、薄手で赤褐色の実用的な土器が発見されたことで、日本における近代考古学・先史時代研究の画期となった歴史的遺跡地である。
向ヶ岡貝塚における土器の発見と経緯
1884年(明治17年)3月、東京大学に隣接する東京府本郷区向ヶ岡弥生町(現在の東京都文京区弥生)において、それまでに知られていた縄文土器とは明らかに意匠や質の異なる、薄手で赤褐色の壺形土器が発見された。発見者は、当時東京大学の学生(または関わりの深い人物)であった有坂鉊蔵、坪井正五郎、白井光太郎の3人である。この発見は、日本に縄文時代とは異なる「もう一つの先史時代」が存在したことを実証する、近代考古学の幕開けにふさわしい大発見であった。しかし当時は、発見地に関する正確な測量や発掘記録が残されず、のちに発見地点をめぐる長年の論争を引き起こす原因ともなった。
「弥生式土器」から「弥生時代」への展開
この地で発見された土器は、のちに地名をとって「弥生町式土器」と呼ばれ、さらに簡略化されて「弥生式土器」(現在の「弥生土器」)として学界に定着した。そして、この土器が使用された時代は、本格的な水稲稲作や金属器(青銅器・鉄器)の受容を最大の特徴とする新時代であることが明らかとなる。大正時代から昭和時代にかけて研究が深化するにつれ、この時期を示す時代区分として「弥生時代」という名称が正式に採用された。一地域の町名が、日本史の全国家的な時代区分名としてそのまま定着した極めて珍しい事例である。
弥生町遺跡の謎と現在の歴史的評価
本郷弥生町における土器の発見は極めて重要であったものの、明治期の未熟な調査ゆえに正確な発見地点(弥生町遺跡)の特定は困難を極めた。大正期以降、東京大学構内などで度重なる発掘調査が行われ、複数の候補地が浮上した。現在では、東京大学本郷キャンパス内の浅野地区にある「向ヶ岡貝塚」がその最も有力な発見地と目されており、国指定史跡として整備されている。このように、本郷弥生町は単なる考古学上の遺跡地にとどまらず、日本近代アカデミズムの黎明期における知的探求と試行錯誤の歴史を象徴する場所としての意義をも内包している。