第1回衆議院議員総選挙
【概説】
1890年(明治23年)7月1日に実施された、日本で初めての国政選挙。大日本帝国憲法とともに制定された衆議院議員選挙法に基づき、「直接国税15円以上を納める満25歳以上の男子」に選挙権が与えられ、政府と対立する民党が過半数を獲得して大勝を収めた。
制限選挙の仕組みと有権者の実態
1889年(明治22年)の大日本帝国憲法発布と同時に公布された衆議院議員選挙法に基づき、翌1890年に日本史上初となる国政選挙が実施された。当時の選挙制度は厳しい財産資格を伴う制限選挙であり、選挙権を与えられたのは「直接国税15円以上を納入する満25歳以上の男子」に限られていた。被選挙権(立候補する権利)は満30歳以上の男子とされた。
ここでいう直接国税とは、主に地租と所得税を指すが、当時は所得税の納税者はごく僅かであったため、有権者の大部分は一定以上の土地を所有して多額の税を納める地主層であった。この要件を満たした有権者は全国で約45万人であり、当時の日本の総人口(約4000万人)のわずか約1.1%に過ぎなかった。限られた層による選挙ではあったが、国民の代表を議会に送り込むという近代的な政治参加の道が、アジアで初めて本格的に開かれたことの歴史的意義は極めて大きい。
「民党」と「吏党」の激しい選挙戦
選挙戦は、政府を支持し協力的な立場をとる「吏党」(大成会など)と、かつての自由民権運動の流れを汲み政府を批判する「民党」(立憲自由党、立憲改進党など)との激しい争いの構図となった。
当時の政府(第1次山縣有朋内閣)は、政府は政党の意向に左右されずに政策を行うべきだとする「超然主義」の立場をとっており、選挙へのあからさまな直接干渉は控えていた。一方の民党側は、「民力休養・政費節減」(地租の軽減と政府予算の削減)を共通のスローガンに掲げて選挙戦を展開した。地租の重い負担に苦しんでいた有権者たる地主層にとって、この民党の主張は自らの経済的利益に直結するものであり、熱烈な支持を集めることとなった。
民党の圧勝と初期議会への影響
1890年7月1日に行われた投票は、有権者の政治的関心の高さを反映し、投票率93.9%という驚異的な数字を記録した。定数300議席(主に小選挙区制)を巡る争いの結果、立憲自由党が130議席、立憲改進党が41議席を獲得した。これにより、民党勢力が合わせて171議席を占め、衆議院の過半数を制する大勝を収めた。
この第1回衆議院議員総選挙における民党の圧勝は、同年11月に召集された第1回帝国議会(初期議会)の動向を決定づけた。政府は予算案を成立させるために衆議院の同意を必要としたが、過半数を握る民党が「政費節減」を盾に激しく抵抗したため、議会運営は困難を極めた。最終的に政府側が一部の民党議員(土佐派)を切り崩すことで辛うじて予算を成立させるが、この選挙結果は「藩閥政府と政党との妥協・協調なしには近代国家の運営は成り立たない」という現実を、政府首脳に強く突きつけることとなったのである。