民党

初期議会において、藩閥政府に対抗し、衆議院で過半数の議席を占めて予算の削減などを要求した野党勢力を何というか?
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民党

1890年代

【概説】
明治時代の初期議会において、藩閥政府と対立した自由民権運動の流れをくむ政党の総称。主に立憲自由党や立憲改進党などを指し、「政費節減」「民力休養」をスローガンに掲げて衆議院の過半数を制した。政府を支持する「吏党」と激しく対立し、予算削減の要求を通じて政府に議会政治の現実を突きつけた。

自由民権運動から議会への進出

1890年(明治23年)の大日本帝国憲法施行に伴い、第1回衆議院議員総選挙が実施された。この選挙を経て議会に選出された議員のうち、かつての自由民権運動を主導した勢力である旧自由党系の立憲自由党や、大隈重信が率いた立憲改進党を中心とする反政府・野党勢力は「民党」と総称された。彼らは、地租軽減を強く求める地方の地主層や、資本主義の発展を望む商工業者からの支持を背景に、衆議院において過半数の議席を獲得した。

「政費節減・民力休養」の掲揚と吏党との対立

民党に対峙したのは、当時の藩閥政府と、それに追従する親政府派の政党(大成会や国民協会など)であり、これらは「吏党」と呼ばれた。政府は政党の意向に左右されずに政策を行うとする超然主義を掲げていたが、民党はこれに対して「政費節減・民力休養」のスローガンを打ち出して徹底抗戦の構えを見せた。これは、政府が進める軍備拡張や官僚機構の肥大化による予算膨張を厳しく批判し、行政整理による経費削減(政費節減)と、それに伴う地租の軽減(民力休養)を求めるものであった。

初期議会における激しい攻防

民党と政府(吏党)の対立は、初期議会(第1回〜第6回帝国議会)において火花を散らした。第1回帝国議会(第1次山県有朋内閣)では、民党が予算案の大幅削減を迫ったが、政府側が立憲自由党の一部(土佐派)を切り崩すことで辛うじて予算を成立させた。続く第2回議会(第1次松方正義内閣)では対立がさらに激化し、衆議院解散に発展する。この第2回総選挙に際して、内務大臣の品川弥二郎らによる大規模な選挙干渉が行われたが、民党側は死傷者を出しながらも過半数を死守し、政府に大きな政治的打撃を与えた。さらに第4回議会(第2次伊藤博文内閣)でも軍艦建造費をめぐって紛糾したが、最終的に明治天皇から和衷協同の詔勅(建艦詔勅)が出されたことで、民党は予算案の妥協を余儀なくされた。

日清戦争と「民党」の変質

このように政府を苦しめ続けた民党であったが、1894年(明治27年)に日清戦争が勃発すると、挙国一致体制の下で政府の戦争遂行に協力し、議会での対立は一時休止した。戦後になると、政府側も円滑な議会運営や政策実現において政党の協力が不可欠であると悟り、藩閥と政党の提携が模索されるようになる。1895年に自由党が伊藤博文内閣と、翌年には進歩党(立憲改進党の後身)が松方内閣と提携したことで、従来の「民党対吏党」という明確な対立構造は崩壊へと向かった。そして1898年、自由党と進歩党が合同して憲政党を結成し、日本初の政党内閣である隈板内閣(大隈重信内閣)を樹立したことで、反政府野党としての「民党」という概念は歴史的役割を終えることとなった。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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