元勲内閣 (げんくんないかく)
【概説】
明治中期に組織された、第2次伊藤博文内閣の別称。伊藤博文をはじめ、黒田清隆や山県有朋など明治維新の立役者(元勲)たちが挙国一致でこぞって入閣した強力な藩閥政権。初期議会における対立の激化や日清戦争という国家的危機に対処するため組織された。
藩閥政府の危機と「超然主義」の限界
大日本帝国憲法の発布と帝国議会の開設以降、薩長出身者を中心とする藩閥政府は、政党を無視して国政を運営しようとする「超然主義」を掲げていた。しかし、衆議院で過半数を占める民党(自由党や立憲改進党など)は「政費削減・民力休養」を主張し、政府の予算案を否決するなど激しく対立した。第1次山県有朋内閣、第1次松方正義内閣は、それぞれ買収や激しい選挙干渉によって議会を乗り切ろうとしたものの、政権運営は行き詰まり、超然主義による統治は限界を迎えていた。この政治的混迷を打開し、挙国一致の体制を整えるために、1892(明治25)年8月に組織されたのが第2次伊藤内閣、すなわち「元勲内閣」である。
維新の巨頭たちの結集と挙国一致体制
元勲内閣の最大の特徴は、閣僚の豪華さにある。総理大臣の伊藤博文(長州)のもとに、元総理の黒田清隆(薩摩)が逓信相、同じく元総理の山県有朋(長州)が司法相、維新の元勲である井上馨(長州)が内相、西郷従道(薩摩)が海相、大山巌(薩摩)が陸相として入閣した。このように、それまで総理大臣を経験した者や各藩閥の領袖クラスがそろって一堂に会する布陣は前代未聞であり、まさに「オールスター」と呼べる超重量級の内閣であった。政府は、この強力な指導力をもって、対外硬派(対外強硬策を主張する野党勢力)による政府糾弾や、条約改正交渉という難局に立ち向かおうとした。
日清戦争と政党への接近
元勲内閣の期間中、日本は近代史における大きな転換点となった日清戦争(1894〜95年)に突入する。戦争の勃発に際し、それまで激しく政府を追及していた民党も「対外団結」を掲げて戦争協力を表明し、軍事予算案を全会一致で可決した。この戦争により、元勲内閣は悲願であった条約改正(日英通商航海条約の調印による領事裁判権の撤廃)の実現と、日清戦争の勝利という多大な成果をあげる。しかし、戦後の三国干渉やその後の軍備拡張計画を進める中で、伊藤は議会の安定的運営のためには「政党との結びつき」が不可欠であると確信するに至る。伊藤内閣は1895年に自由党と提携(衆規連携)し、翌年には自由党総理の板垣退助を内相に迎えた。これは、藩閥政府が従来の超然主義を事実上放棄し、政党内閣の誕生へと向かう重要な一歩となった。