第2次松方正義内閣(松隈内閣) (だいにじまつかたまさよしないかく(しょうわいないかく)
【概説】
1896年9月に発足した、薩摩閥の藩閥政治家・松方正義を首班とする明治期の内閣。大隈重信率いる進歩党と提携して政権運営を行ったことから、双方の頭文字を取って「松隈内閣」と通称される。日清戦争後の戦後経営を推進する中で、藩閥政府と政党との連携が本格化した過渡期の政権である。
藩閥と政党の提携にみる「戦後経営」の模索
日清戦争の勝利後、日本政府は軍備拡張や産業発展を進める「戦後経営」という巨大な課題に直面していた。これを推進するためには、予算案や法案を成立させる必要があり、衆議院の多数派(政党)との協力が不可欠であった。
前内閣の第2次伊藤博文内閣は自由党と提携したが、伊藤の辞職後に政権を担った第2次松方正義内閣は、自由党の対立勢力である進歩党(大隈重信党首)と結んだ。これによって大隈が外務大臣として入閣したほか、進歩党系の人士が政府の要職(各省の次官など)に起用された。この藩閥と政党の本格的な協力体制は、明治の政治史において「超然主義」からの脱却と、政党政治への接近を示す重要な一歩であった。
金本位制の確立と言論規制の緩和
松隈内閣における最大の業績は、1897年に制定された貨幣法による金本位制の確立である。日清戦争で清から獲得した膨大な賠償金(イギリス・ポンド)を準備金に充てることで、長年の懸案であった金本位制への移行を達成した。これにより、日本の国際的信用は飛躍的に高まり、外資の導入が容易になったことで、日本資本主義・産業革命が加速することとなった。
また、進歩党側の要求を容れる形で、自由民権運動期以来、厳しい言論統制の道具となっていた新聞紙条例や集会及政社法の改正(緩和)を行い、進歩的な言論環境の整備にも一定の役割を果たした。
提携の破綻と政党内閣への伏線
しかし、この「松隈妥協」は長くは続かなかった。藩閥の主流派(特に山県有朋系)は、政党勢力が政府の要職に浸透していくことに強い危機感を抱き、内閣への揺さぶりをかけた。また、軍備拡張を目的とする地租増税案をめぐり、地主層を支持基盤とする進歩党と、増税を強行しようとする松方ら藩閥との間で致命的な対立が生じた。
結局、行政改革の進捗をめぐる不満も重なり、1897年末に進歩党は提携を解消して大隈は外相を辞任。議会での過半数を失った松方内閣は衆議院を解散し、その直後の1898年1月に総辞職を余儀なくされた。この内閣の崩壊は、直後の第3次伊藤博文内閣を経て、同年に日本初の政党内閣である第1次大隈重信内閣(隈板内閣)が成立する決定的な引き金となった。