進歩党 (しんぽとう)
【概説】
明治中期の1896年に、立憲改進党を中心とする対政府硬硬派の諸会派が合同して結成された政党。大隈重信を事実上の指導者とし、藩閥政府である第2次松方正義内閣と提携して政権の一翼を担った。のちに自由党と合同して日本初の政党内閣である「隈板内閣(憲政党)」を誕生させる大前提となった存在。
結成の背景と「松隈提携」の成立
日清戦争後の日本政治は、それまで対立関係にあった藩閥政府と民党(政党)が妥協・提携を模索する「戦後経営」の時代へと突入した。1895年、板垣退助率いる自由党が第2次伊藤博文内閣との提携に踏み切ると、これに対抗する野党勢力の結集が急務となった。
このような状況下、1896年3月、大隈重信率いる立憲改進党を中心に、実業中正倶楽部や大手倶楽部などの小会派が合同して進歩党が結成された。進歩党はイギリス型の二大政党制を理想に掲げ、責任内閣制の確立や財政整理、外交の刷新を主張した。同年9月、第2次松方正義内閣が発足すると、進歩党は大隈重信を外務大臣として入閣させ、政権への閣外協力を決定した。この藩閥と進歩党の提携は「松隈提携(松隈内閣)」と呼ばれ、政党の側が官僚組織や行政権への影響力を拡大する契機となった。
提携の決裂と憲政党への合流
松隈内閣のもとで、進歩党は新聞紙条例の改正や言論の自由の拡大といった成果を上げた。しかし、軍備拡張にともなう地租増徴(増税)の是非をめぐって政府内部や他会派との対立が激化。また、大隈が進めた対中国外交をめぐる政府内の不協和音も重なり、1897年末に進歩党は松方内閣との提携を解消した。大隈の外相辞任にともない、第2次松方内閣は総辞職を余儀なくされた。
その後、政権を継いだ第3次伊藤博文内閣が地租増徴案を議会に提出すると、進歩党はかつての宿敵であった自由党と合同してこれに対抗する動きを強めた。1898年6月、進歩党と自由党はともに解党し、大同団結して憲政党を結成した。これにより、藩閥政府に対抗する巨大政党が誕生し、同年の日本初となる政党内閣(第1次大隈内閣、通称「隈板内閣」)の組織へとつながっていくこととなる。