タイオワン事件 (たいおわんじけん)
【概説】
1628年(寛永5年)に台湾(タイオワン)で発生した、オランダ東インド会社と日本の朱印船貿易商との間の武力衝突・貿易摩擦事件。長崎代官・末次平蔵の配下である浜田弥兵衛がオランダの台湾長官を人質に取ったことで知られる。この事件により日蘭貿易は一時中断を余儀なくされたが、最終的に幕府の外交的優位を示す結果となり、後の「鎖国」体制における日蘭関係を規定する契機となった。
台湾をめぐる日蘭の貿易摩擦
17世紀初頭、アジア地域への進出を強めていたオランダ東インド会社は、1624年に台湾南部を占領し、交易の拠点としてゼーランディア城(タイオワン)を築いた。当時、日本からは江戸幕府より朱印状を得た朱印船がさかんに台湾に渡航し、中国産の生糸などを仕入れる商取引(高砂貿易)を行っていた。長崎代官の末次平蔵も、その代表的な朱印船貿易商の一人であった。
オランダ側は台湾の領有権を主張し、通航・交易を行う日本船に対して10%の輸出税(関税)を課そうとした。これに対し日本側は、オランダが進出する以前から台湾での交易実績があることを根拠に課税を拒否。両者の間で深刻な利害対立と感情的な摩擦が生じることとなった。
浜田弥兵衛の挙兵と人質事件
1627年、末次平蔵の船長である浜田弥兵衛は台湾に渡ったが、現地でオランダ側による執拗な妨害を受けた。弥兵衛は対抗措置として、台湾の先住民(シラヤ族)たちを引き連れて帰国し、彼らを「高砂国からの使節」として将軍・徳川家光に謁見させ、オランダの非道を幕府に直接訴えようと試みた。しかし、国際紛争を警戒する幕府はこの謁見を拒絶した。
翌1628年、弥兵衛は再び台湾に渡航。これに対してオランダの台湾長官ピーター・ノイツは、弥兵衛らの船から武器や貨物を没収し、彼らを監禁・拘束するという強硬策をとった。この暴挙に憤慨した弥兵衛らは、隙を突いてノイツ長官の居室に乱入し、彼を人質に取るという大胆な行動に出た。この奇襲によって形勢は逆転し、最終的に「人質の交換」「没収された武器・貨物の返還」「ノイツの息子らを人質として日本へ送る」ことなどを条件に和議が成立し、弥兵衛らは日本への帰国を果たした。
日蘭貿易の中断と「鎖国」への影響
事件の報が日本に伝わると、江戸幕府はオランダ側の不法を厳しく追及した。幕府は平戸のオランダ商館を閉鎖し、オランダ船の来航および日蘭貿易を全面的に停止する措置を取った。当時、アジアにおける貴重な利益源であった日本市場を失うことは、オランダ東インド会社にとって致命的な打撃であった。
事態を重く見たオランダ側は、関係修復のために1632年、元長官であるピーター・ノイツを罪人として日本に引き渡し、江戸幕府に謝罪した。幕府はこれを受け入れてノイツを抑留し、抑留を解いた後に貿易の再開を認めた。この事件を通じて、幕府は西洋のキリスト教国家に対しても自国の司法や主権が優越することを示した。のちに完成へと向かう「鎖国」体制(オランダのみに長崎での貿易を許す体制)において、オランダが幕府に対して絶対的な恭順・服従姿勢をとり続ける契機となった事件である。