租借地 (そしゃくち)
【概説】
帝国主義列強が、条約によって清国などの領土を長期間にわたって借り受け、事実上の植民地として支配した土地。名目上の領土主権は貸与国に残されるものの、行政や軍事などの実質的な統治権は借受国が独占的に行使した。
帝国主義列強による中国分割の手段
19世紀末、資本主義が高度に発達した欧米列強や日本は、原料供給地および市場を求めて帝国主義的膨張を開始した。その格好の標的となったのが、アヘン戦争以降弱体化が著しかった清国(中国)である。列強は国際的な非難を避けるため、清国の領土を完全に割譲(主権の移動)させるのではなく、条約に基づいて長期間(一般に25年から99年間)借り受けるという形式をとった。これが租借地である。租借地においては、名目上の領土主権こそ清国に残されたものの、行政・立法・司法・警察・軍事などの一切の権限は借受国に委ねられており、事実上の植民地として機能した。
三国干渉と列強の租借競争
日本史において租借地が重要な意味を持つ発端となったのは、1894年(明治27年)に勃発した日清戦争である。戦勝国となった日本は、1895年の下関条約により清国から遼東半島を割譲された。しかし、満洲から朝鮮半島への南下政策を企図していたロシアは、ドイツ・フランスを誘って日本に圧力をかけ、遼東半島を清国に返還させた(三国干渉)。ところがロシアは、1898年に自ら清国に迫って旅順・大連を含む遼東半島南部を租借し、太平洋岸の不凍港を手に入れた。これを機に、ドイツの膠州湾(青島)、イギリスの九竜半島・威海衛、フランスの広州湾など、列強は次々と清国の港湾を租借し、中国分割は決定的なものとなった。
ポーツマス条約と「関東州」の成立
ロシアの満洲占領と朝鮮半島への脅威は、1904年の日露戦争を引き起こした。辛勝した日本は、翌1905年のポーツマス条約によって、ロシアから遼東半島南部の租借権、ならびに長春・旅順間の鉄道(のちの南満洲鉄道)およびその付属の炭鉱の権利などを譲り受けた。日本はこの租借地を関東州と命名し、統治機関として関東都督府(のちに関東庁、関東局と改組)を設置した。ここを拠点として駐留した守備隊が、のちに満洲事変を引き起こす関東軍である。日本の満洲経営は、この関東州という租借地と、国策会社である南満洲鉄道(満鉄)を二大中核として展開されていくこととなった。
第一次世界大戦と租借地をめぐる外交戦
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、日本は日英同盟を理由に連合国側として参戦し、ドイツの租借地であった山東半島の膠州湾を占領した。翌1915年、日本は袁世凱政権に対して二十一カ条の要求を突きつけ、本来1923年に期限切れとなるはずであった旅順・大連(関東州)の租借期限を99カ年延長し、1997年までとすることを認めさせた。さらにドイツが持つ山東省の権益継承も要求したが、大戦後のワシントン会議において締結された山東懸案解決条約(1922年)により、激しい対日批判を行っていた中国に膠州湾租借地を返還することとなった。
満洲国建国と租借地の終焉
1932年(昭和7年)に関東軍の主導により日本の傀儡国家である満洲国が建国されて以降も、日本は関東州の主権は満洲国にあるとしつつ、同地を日本領土と同等に扱い、引き続き租借地としての直接統治を継続した。しかし、1945年の太平洋戦争の敗戦により、日本はポツダム宣言を受諾し、海外のすべての植民地や権益を放棄した。これにより、半世紀にわたって日本の大陸進出の最前線であった関東州の租借権も消滅し、中華民国へと接収された。こうして、日本史における「租借地」という帝国主義特有の領土支配形態は幕を閉じたのである。