相楽総三 (さがらそうぞう)
【概説】
幕末期の尊王攘夷派志士であり、戊辰戦争時に結成された新政府側の先鋒部隊「赤報隊」の隊長。新政府の先鋒として「年貢半減」を掲げて民衆の支持を集め進軍したが、のちに新政府の方針転換によって「偽官軍」の烙印を押され、不条理に処刑された悲劇の人物である。
赤報隊の結成と「年貢半減」の布告
相楽総三は武蔵国(現在の東京都)の富裕な農家(あるいは郷士)の出身で、早くから尊王攘夷思想に傾倒し、各地の志士と交わった。江戸薩摩藩邸の浪士隊を組織して幕府を攪乱する工作に従事したのち、1868年(慶応4年)に戊辰戦争が勃発すると、西郷隆盛らの支持を得て赤報隊を結成した。
赤報隊は新政府軍の先鋒として東山道を進軍した。その際、新政府の「官軍」への支持を民衆から取り付けるため、相楽らはかねてから建白していた「年貢半減」の触れ書きを各地で布告した。この布告は、徳川幕府の支配に苦しんでいた農民層から熱狂的な歓迎をもって迎えられ、新政府軍の進軍を大いに容易にした。
「偽官軍」とされた背景と相楽の最期
しかし、財政基盤が極めて脆弱であった初期の新政府にとって、実際に年貢を半減することは不可能な約束であった。また、東征が順調に進み、旧幕府勢力との妥協や交渉が進むにつれて、民衆を刺激し過激な社会改革を唱える赤報隊は、新政府にとって制御困難で不都合な存在へと変わっていった。
新政府は「年貢半減」を勝手な暴論とし、赤報隊を自らの支配下から切り離す決定を下した。赤報隊には帰還命令が出されたが、布告の正当性を信じる相楽はこれに応じず、進軍を続けた。その結果、新政府は赤報隊を偽官軍(偽の官軍)と指定し、1868年3月、相楽は信濃国下諏訪の宿場町において捕らえられ、斬首された。享年30(満29歳)であった。
事件の歴史的意義と後世への影響
相楽総三の処刑と赤報隊の解散は、新政府が権力を掌握する過程で見せた冷徹なリアリズムを象徴する事件である。民衆の不満を利用して旧体制を打倒したのち、支配の安定のために都合の悪い約束や実行者を切り捨てるという、近代国家誕生の「影」の部分を示すものとして、日本近代史においてしばしば議論の対象となる。
相楽の死後、その名誉は長く葬り去られていたが、明治から大正にかけて、遺族や生き残った同志(結城無二三ら)による名誉回復運動が展開された。その結果、1928年(昭和3年)になってようやく正五位が贈られ、相楽総三は「国家の犠牲となった忠臣」として公式に復権を果たすこととなった。