徒党・強訴・逃散の禁止 (ととう・ごうそ・ちょうさんのきんし)
【概説】
明治新政府が「五榜の掲示」の第二札において布告した、民衆の共同行動や抗議活動を禁止する法令。江戸幕府の民衆統制策をそのまま継承したものであり、初期新政府の保守的かつ権威主義的な支配姿勢を示す象徴的な政策である。
「五榜の掲示」第二札と旧習の継承
1868年(慶応4年)3月、明治新政府は天皇親政の基本方針を示す「五箇条の御誓文」を公布した翌日、民衆向けの基本方針として五榜の掲示を素早く全国に高札として掲げた。その第二札に盛り込まれたのが「徒党・強訴・逃散の禁止」である。
ここで禁止された「徒党(集団を結成すること)」「強訴(暴力的な手段を用いて要求を通そうとすること)」「逃散(重税などに抗議して集団で村を放棄し他領へ逃れること)」は、いずれも江戸時代の百姓一揆において民衆が領主に対抗するために用いた伝統的な闘争手段であった。新政府は、政権が移行してもこれらの一揆行動を一切容認せず、旧幕府法と同様に厳罰をもって臨む姿勢を明確に示したのである。
新政府の二面性と社会基盤の安定化
新政府がこのような高圧的な民衆統制を行った背景には、当面する社会不安と財政基盤の確保という切実な問題があった。当時は戊辰戦争の最中であり、各地で「世直し」を求める一揆や、新政府への不満を募らせた民衆運動が多発していた。急進的な社会変革を恐れた新政府は、国家の混乱を防ぎ、かつ旧領主層(大名や地主など)の協力を得るために、まずは強固な秩序の維持を最優先とした。また、新政府の財政は農民からの年貢に依存していたため、生産基盤である農村の崩壊につながる逃散などは、何としても阻止しなければならなかった。
「五箇条の御誓文」が「広く会議を興し万機公論に決すべし」と唱えて開明的な近代国家の理念を示したのに対し、「五榜の掲示」は民衆を依然として「従うべき客体」として位置づけた。この乖離は、初期明治新政府が持っていた近代性と封建性という「二面性」を如実に表している。しかし、こうした旧態依然とした統制は、その後の文明開化や近代化の進展、さらに版籍奉還や廃藩置県といった本格的な社会構造の変革が進むにつれて実態に合わなくなり、1873年(明治6年)には高札撤廃とともに事実上廃止されることとなった。