太政官(太政官七官制)

1868年の政体書によって規定された、政府の最高機関の下に議政官や行政官など7つの部署を置いた政治体制を何というか?
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重要度
★★

太政官(太政官七官制) (だじょうかん(だじょうかんしちかんせい)

1868年

【概説】
1868年の「政体書」に基づき、明治新政府が発足当初に組織した中央統治体制。最高機関である太政官の下に、議政・行政・神祇・会計・軍務・外国・刑法の7官を置き、日本で初めて三権分立の理念を意識した国家機構の構築を目指した。

政体書の発布と「七官制」の導入背景

1868年(慶応4年)1月、王政復古の大号令によって発足した明治新政府は、当初「総裁・議定・参与」の三職からなる臨時的な体制をとっていた。しかし、戊辰戦争が進行するなかで、より組織的で安定した中央政府の確立が急務となった。そこで、同年3月に発布された五箇条の御誓文の精神(「万機公論に決すべし」など)を具体化するため、副島種臣や福岡孝弟らが起草に関わり、同年閏4月に政体書が公布された。この政体書によって規定された新たな国家組織が、太政官の下に「七官」を配置する太政官七官制である。

形式的な三権分立と権力集中の実態

太政官七官制の最大の特色は、アメリカ合衆国憲法を参考に、東洋で初めて三権分立の考え方を導入した点にある。立法を担う「議政官」、行政を分担する「行政官」「神祇官」「会計官」「軍務官」「外国官」、そして司法を担う「刑法官」の計七官が置かれた。議政官はさらに上局と下局に分かれ、二院制的な議会政治を模索する形がとられた。

しかし、この制度はあくまで過渡期的なものであり、実態としての権力分立は極めて不十分であった。最高官職である議政官の上局議定が行政官の督(長官)を兼務するなど、実際には少数の薩長土肥の藩閥指導者層に権力が集中しており、近代的な民主主義の導入というよりは、新政府による中央集権化と強力な権力行使を正当化するための組織再編という側面が強かった。

近代官僚制への過渡期としての意義

太政官七官制は、旧来の朝廷や幕府の身分秩序に縛られない「官吏(官僚)」の任用制度(官等制や選挙による官吏選出など)を部分的に導入した。これは、家柄重視から実力重視の近代国家へ進むための重要な試行錯誤であったといえる。

この七官制は、戊辰戦争の終結と版籍奉還の実施に伴い、わずか1年余りで廃止された。1869年(明治2年)7月には、神祇官と太政官を頂点とする古代の律令制的な復古主義を強調した二官六省制(太政官制)へと移行することになる。しかし、七官制で培われた行政組織の分権化と専門化の経験は、後の1885年に創設される近代的な内閣制度へと繋がる貴重なステップとなった。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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