外務省
【概説】
1869年(明治2年)の二官六省制において創設された、諸外国との外交事務を専門に担当する中央行政機関。幕末に結ばれた不平等条約の改正交渉などを主導し、近代日本の国際社会への参加と地位向上を牽引した。1885年の内閣制度創設以降も存続し、現在に至るまで日本の外交を担っている。
外務省の創設と二官六省制
明治新政府は成立当初から、諸外国との交際や開港場の管理など、山積する外交課題に対応する必要があった。当初は外国事務総裁や外国官などを目まぐるしく設置・改組していたが、1869年(明治2年)の版籍奉還に伴う官制改革、すなわち二官六省制の導入に際して、外交事務を専門に管轄する外務省が創設された。初代の長官である外務卿には公家の澤宣嘉が就任し、のちに岩倉具視や副島種臣、寺島宗則らが歴任した。外務省は、江戸幕府から引き継いだ外国人居留地問題の処理や、清や李氏朝鮮など近隣アジア諸国との新たな国交樹立、さらには国境画定交渉(樺太・千島交換条約など)といった、近代国家の輪郭を形作るための重要な対外業務を担った。
最大の悲願「条約改正」への道程
明治時代の外務省にとって最大の国家課題は、幕末に欧米列強と締結された安政の五カ国条約に代表される不平等条約の改正であった。領事裁判権(治外法権)の撤廃と関税自主権の回復は、日本が独立した近代国家として国際社会で対等な扱いを受けるために不可欠な条件であった。外務省はこの難題に対し、1871年の岩倉使節団派遣を皮切りに、長期にわたる粘り強い交渉を開始する。寺島宗則、井上馨、大隈重信、青木周蔵といった歴代の外務卿・外務大臣が交渉に当たったが、列強の強硬な態度に加え、外国人法官の任用問題に対する国内の激しい反対運動(国粋主義運動)や、大津事件などの不測の事態に直面し、幾度となく挫折を余儀なくされた。
近代外交体制の確立と列強への仲間入り
1885年(明治18年)に内閣制度が創設されると、外務卿は外務大臣へと名称を変え、初代外相には井上馨が就任した。この頃から外務省は、近代的な外交官僚育成制度を整え、専門性の高いエリート集団を形成していく。そして1894年(明治27年)、日清戦争開戦の直前に、陸奥宗光外相の下で日英通商航海条約の調印にこぎつけ、長年の悲願であった領事裁判権の完全撤廃を達成した。さらに日露戦争後の1911年(明治44年)には、小村寿太郎外相のもとで日米通商航海条約などが結ばれ、関税自主権の完全回復を実現させた。これにより、外務省は半世紀に及ぶ条約改正事業を完遂し、日本を名実ともに欧米列強と肩を並べる「一等国」へと押し上げたのである。
日本近代史における外務省の意義と葛藤
明治期の外務省は、条約改正という明確な目標に向かって政府全体を主導し、国際法に基づく近代的な外交を展開することで国家の存立を守り抜いた。しかし、日清・日露戦争を経て日本が帝国主義的な領土拡大を進めるようになると、国際協調を重んじる外務省(いわゆる「霞が関」)と、大陸進出を強硬に推し進めようとする陸軍などの軍部との間で、外交方針をめぐる意見の対立が目立つようになる。明治時代に確立された外務省主導の外交体制は、大正から昭和へと時代が下るにつれて、軍部の台頭による「二元外交」の弊害に苦しめられていくこととなる。