府・藩・県の三治体制 (ふはんけんのさんじたいせい)
1868年〜1871年
【概説】
明治新政府の発足直後から廃藩置県が実施されるまでの約3年間、日本国内に導入されていた地方統治体制。旧幕府領や旗本領を中央政府の直轄地として「府」や「県」に再編し、旧諸大名の領地である「藩」と並存させた、過渡的な地方行政制度である。
三治体制の成立と「政体書」
1868(慶応4)年、戊辰戦争のさなかに東征をすすめる明治新政府は、国家の基本組織を定めた政体書を布告した。この中で、旧幕府領や旗本領、および旧敵対藩から没収した没収地を新政府の直轄地とすることが定められた。具体的には、京都・大坂・江戸(のちの東京)などの要害や開港場には「府」を置き、その他の直轄地には「県」を設置した。一方で、新政府を支持した旧諸大名の領地はそのまま「藩」として存続が認められた。これにより、国内の行政区分が「府・藩・県」の3つに鼎立する府・藩・県の三治体制(府藩県三治制)が確立した。
中央集権化の阻害と「廃藩置県」への展望
三治体制は、新政府が自前の軍事力や官僚機構を十分に持たなかった時期に、旧大名らの反発を避けるためにとられた妥協的な制度であった。そのため、政府直轄の「府・県」には中央から知事や県令(当初は府知事・県知事)が派遣されたものの、「藩」は依然として旧大名(1869年の版籍奉還後は知藩事)による独自の支配が続けられた。このような二重の支配構造は、軍事力や税制の全国統一を妨げ、明治政府が目指す近代的な中央集権国家の形成において大きな障害となった。結果として新政府は、1871(明治4)年の廃藩置県の断行によって藩を強制的に廃止し、全国を政府直轄の「府・県」に統一することで、この過渡的な三治体制を解消することとなった。