中央集権化
【概説】
藩などの地方の独立した権力を奪い、中央政府に権限を集中させていく一連の政治的動きのこと。日本史においては特に明治時代初期、幕藩体制という地方分権的な社会から近代国民国家へと移行する過程で、明治新政府が推進した強力な国家体制の構築作業を指す。
幕藩体制の限界と版籍奉還
江戸時代の日本は、幕府と全国の諸藩がそれぞれ土地と人民を支配する幕藩体制が敷かれており、高度に地方分権的な統治が行われていた。しかし、19世紀中頃に欧米列強の脅威に直面すると、外圧に対抗しうる強力な統一国家の形成が急務となった。1868年(慶応4年/明治元年)に発足した明治新政府は、富国強兵を図り近代化を推し進めるため、全国の資源や人材を政府のもとに一元化する必要があった。
その第一歩として断行されたのが、1869年(明治2年)の版籍奉還である。薩摩・長州・土佐・肥前の4藩主の建白を機に、全国の藩主が土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還した。しかし、新政府は旧藩主をそのまま知藩事に任命したため、実質的な領主支配の構造や旧来の藩政は温存され、中央集権化としては不完全な状態に留まっていた。
廃藩置県による最大の画期
版籍奉還後の不徹底な状態を打破し、真の統一国家を建設するため、新政府は1871年(明治4年)に廃藩置県を断行した。薩長土の3藩から献上された直属の武力である御親兵(のちの近衛兵)を背景に、全国の藩を完全に廃止して府と県を設置し、中央から府知事・県令を派遣して直接統治を行う体制へと転換したのである。
これにより、旧藩主たちは東京への移住を命じられ、数百年にわたって続いた封建的な地方支配は根底から覆された。各藩が抱えていた多額の債務や士族の家禄支払い義務は新政府が肩代わりする一方で、全国の租税徴収権や軍事権は完全に中央政府へと移譲された。廃藩置県は、日本の歴史上類を見ない無血の政治クーデターであり、明治期の中央集権化において最も決定的な画期となった。
諸制度の全国的統一と国家基盤の確立
地方行政機構の改変に続き、新政府は近代国家の屋台骨となる諸制度の全国的統一に着手した。1872年(明治5年)の学制発布により、身分や地域に縛られない全国一律の近代教育制度を導入し、国民意識の醸成を図った。続いて1873年(明治6年)には徴兵令を施行し、旧武士階級による軍事力の独占を廃して、国民皆兵に基づく国家直属の近代軍隊を創設した。
さらに同年に着手された地租改正では、全国統一の基準による土地調査(改阻)を行い、地価の3%(のちに2.5%)を現金で納めさせる近代的な税制を確立した。これにより新政府は、豊凶に左右されない安定した財源を全国から直接吸い上げることが可能となり、官僚機構や軍隊を維持・拡大するための強固な財政基盤を獲得した。
内務省の設置と近代国家の完成
1873年(明治6年)、大久保利通を中心に内務省が設立された。内務省は地方行政、警察、土木、衛生、さらには殖産興業までを一手に掌握する強大な官庁として機能し、中央政府の意志を地方の隅々にまで浸透させる役割を担った。この内務省による全国的な行政統制は、明治政府の中央集権的性格をより一層色濃いものとした。
その後、自由民権運動の勃興により地方自治の拡大や国会開設を求める声が高まる中でも、政府は権力の分散を警戒し続けた。1888年(明治21年)からの市制・町村制、続く府県制・郡制の制定によって地方自治制度が形作られたものの、それは内務省の強い監督下に置かれた官治的な性格の強いものであった。そして1889年(明治22年)の大日本帝国憲法発布によって、天皇を中心とする強力な中央集権国家の法的枠組みが最終的に完成した。明治政府による急進的かつ徹底した中央集権化は、日本が欧米列強の植民地化を免れ、短期間でアジア初の近代化を成し遂げるための不可欠な大前提であったといえる。