身分解放令(解放令)
【概説】
1871年(明治4年)に明治政府が太政官布告として発布した、被差別身分の廃止と平民への編入を定めた法令。江戸時代から続く「穢多・非人」などの呼称を廃止し、身分や職業を平民と同様にすることを宣言した。近代国家形成に向けた法制上の画期的な施策であったが、実質的な経済的保障を伴わない形式的な解放であったため、近代以降に新たな差別問題を引き起こす起点ともなった。
幕藩体制下の被差別民と社会的役割
江戸幕府は、社会秩序を維持するために武士を支配階級とし、農民・職人・商人などの平民を置いたが、その体制の最下層に「穢多(えた)」や「非人(ひにん)」と呼称される被差別身分を固定化した。彼らは居住地を制限され、一般民衆との交際や通婚を厳しく禁じられるなど、過酷な身分的差別の対象とされていた。
しかし一方で、彼らは幕藩体制下において不可欠な役割を担っていた。警察・行刑の補助役や、皮革の製造、斃牛馬(へいぎゅうば)の処理、清掃や芸能など、特定の職業に関する独占権を与えられていたのである。この独占権は、過酷な差別に対する一定の生活保障として機能しており、彼ら独自の経済的基盤を形成していた。
四民平等政策と解放令の布告
明治維新を経て成立した新政府は、欧米列強に対抗しうる近代的な中央集権国家の樹立を目指した。そのためには、封建的な身分制度を解体し、天皇の下に均質で平等の国民を創出する「四民平等」の政策が不可欠であった。国民皆兵(のちの徴兵令)や地租改正による税収確保を円滑に進めるためにも、身分的特権や被差別身分の撤廃が急務とされたのである。
大江卓らの尽力もあり、1871年(明治4年)8月28日、政府は太政官布告を発布した。これが一般に「身分解放令」(当時は単に「解放令」あるいは「賎民廃止令」とも呼ばれた)である。布告文には「穢多非人等ノ称ヲ廃シ身分職業共平民同様トス」と記され、法的には数百年にわたる身分差別の撤廃が宣言された。
「形だけの解放」と経済的基盤の崩壊
解放令は、法制上の身分解放を実現した点では歴史的意義が大きい。しかし、政府の施策はあくまで天皇の「一視同仁」の理念を示す政治的なポーズの側面が強く、被差別民の社会的・経済的自立を支援する措置は一切講じられなかった。
身分・職業が平民と同様になったことは、裏を返せば、江戸時代に彼らが持っていた皮革処理などの職業的独占権が剥奪されたことを意味した。資金力のある平民や資本家がこれらの産業に参入してきたことで、被差別民の多くは経済的基盤を奪われ、かえって深刻な貧困に陥ることとなった。さらに、翌1872年(明治5年)に編纂された壬申戸籍(じんしんこせき)においては、彼らは「新平民」や「元穢多」などと記載され、行政的にも旧平民(本平民)との区別が温存されてしまったのである。
解放令反対一揆の勃発
解放令の発布は、一般の平民層からも激しい反発を招いた。長年、被差別民を見下すことで精神的な優越感を保っていた農民たちは、「彼らと同等に扱われること」に対する不満を爆発させた。また、同時期に進められていた解放政策や近代化政策に対する不安も重なり、西日本を中心に解放令反対一揆が頻発した。
一揆勢は被差別部落を襲撃し、家屋の打ちこわしや放火、殺傷事件を引き起こした。政府はこれを武力で厳しく鎮圧したが、この騒動は、法律で制度を廃止しても民衆の意識の底にある差別感情を払拭することは極めて困難であることを浮き彫りにした。
歴史的意義と近代部落問題への接続
身分解放令は、日本の近代化において基本的人権の概念を法制化しようとした重要なマイルストーンである。しかし、実態としての生活保障や教育的啓発が欠如していたため、差別は「身分差別」から近代的な「社会問題・経済問題としての部落差別」へと姿を変えて存続することになった。
この不完全な解放による社会的矛盾は、大正時代に入り、被差別部落出身者自身による自主的な解放運動である全国水平社(1922年結成)の創設へと繋がっていく。身分解放令は、日本における人権の歴史の第一歩であると同時に、現代まで続く同和問題(部落問題)という重い課題の起点として記憶されるべき出来事である。