田畑勝手作の許可
【概説】
1871年(明治4年)に明治政府が発布した、農民が自らの耕地で自由に作物を栽培することを認めた法令。江戸幕府による農民統制および年貢確保のための政策であった「田畑勝手作の禁」を撤廃したもの。これにより農業生産の自由化が進み、のちの地租改正に向けた前提が整えられることとなった。
江戸期の農民統制「田畑勝手作の禁」の打破
江戸幕府は1643年(寛永20年)に田畑勝手作の禁(たはたかってづくりのきん)を定め、農民が本途金(基本となる年貢)の対象である米や麦以外の作物、特に煙草や木綿、菜種などの商品作物を自由に栽培することを制限していた。これは、農民が利益追求に走り、主食であり年貢の基盤である米の生産が疎かになることを防ぐための統制策であった。しかし、幕末にかけて貨幣経済が農村に浸透すると、この制限は実質的に形骸化し、各地で商品作物の栽培が広がっていた。
明治政府は、こうした旧来の封建的な規制を正式に打破し、産業の発展と近代化を推し進めるため、1871年(明治4年)9月に「田畑勝手作の許可」を布告した。これにより、農民は市場の需要や自らの経営判断に基づき、最も収益性の高い作物を主体的に選択・栽培することが可能となり、日本の農業は近代的・商業的農業へと大きく舵を切ることとなった。
地租改正への論理的ステップとしての歴史的意義
田畑勝手作の許可は、単なる農業政策の自由化にとどまらず、明治政府が進めた土地制度改革、ひいては国家財政の近代化において極めて重要なマイルストーンであった。政府が近代的な税制を確立するためには、まず農民に「土地の自由な利用権」を認める必要があったからである。
この改革の翌年である1872年(明治5年)には、土地の自由な取引を認める田畑永代売買の解禁が行われ、さらに地券の交付によって土地の私的所有権が法的に保障された。そして、これら一連の自由化政策の総仕上げとして、1873年(明治6年)の地租改正が断行される。すなわち、田畑勝手作の許可は、江戸時代の「石高制(米による現物納税)」から、土地の価値(地価)に応じた「金納」へと税制を転換するための、論理的なスタートラインとなったのである。