銀座

1872年の大火災を機に、政府によって不燃化を目的とした西洋風のレンガ造りの街並みが建設された東京の地区はどこか?
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銀座

【概説】
明治初期の大火を契機に、政府主導によって日本初の西洋風レンガ造りの街並みが整備された東京の地区。江戸時代の銀貨鋳造所に由来する地名であり、近代化と文明開化のシンボルとして日本の近代都市計画の先駆となった。

銀座大火と不平等条約改正への思惑

江戸時代において銀貨鋳造所が置かれ、職人や商人の街として栄えた銀座は、明治維新後も東京の中心地としての役割を担っていた。しかし、1872(明治5)年2月、和田倉門内から出火した大火(銀座大火)により、丸の内から銀座、築地一帯に至る広大なエリアが焼失する事態となった。

当時、明治政府は欧米列強との間で不平等条約の改正交渉を進めており、日本の近代化と「文明国」としての実力を国際社会に示す必要性に迫られていた。そのため、大蔵大輔の井上馨ら政府首脳は、単なる災害復興にとどまらず、火災に強い近代的な耐火都市を首都東京に構築することを目指し、国家プロジェクトとして銀座の再開発に着手した。

ウォートルスによる「銀座煉瓦街」の建設

復興計画の設計・指導を任されたのは、お雇い外国人の英国人技師トーマス・ウォートルスであった。彼は、道路の大幅な拡幅、歩道と車道の分離、ガス灯の設置、桜や松(のちに柳)などの街路樹の植樹など、西洋風の近代的な都市空間をデザインした。

その中核となったのが、日本初となる本格的な西洋風赤レンガ造りの街並みである「銀座煉瓦街」の建設であった。この建設に使用する煉瓦を調達するため、現在の葛飾区小菅に官営の煉瓦製造所が設立されるなど、この事業は日本の近代窯業の発展をも促すこととなった。

文明開化のシンボルから流行の発信地へ

こうして誕生した銀座煉瓦街であったが、完成当初は日本の気候(湿気)に合わないことや、高額な家賃がネックとなり、多くの空き家が発生するなど不評を極めた。しかし、政府の勧誘や移住策によって、次第に新聞社や出版社などの新しいメディア企業、さらに時計店や洋服店といった最先端の輸入品を取り扱うハイカラな店舗が集まるようになった。

明治中期以降、銀座は日本における文明開化とモダン文化の発信地として急速に発展し、のちの大正時代における「銀ぶら」(銀座を散策すること)という流行語に代表されるような、大衆消費社会の象徴的な場所へと変貌を遂げていくこととなる。

旅する煉瓦

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日本煉瓦史の研究

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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