大学区・中学区・小学区

1872年の「学制」において、全国を細分化して学校を配置するために設けられた3つの教育区画を合わせて何というか?
カテゴリ:
重要度
★★

【参考リンク】
学制(Wikipedia)

大学区・中学区・小学区 (だいがっく・ちゅうがっく・しょうがっく)

1872〜1879年

【概説】
明治政府が1872年(明治5年)の「学制」発布に際して導入した、学務管理および学校設置のための教育区画制度。全国を8の大学区に分け、それぞれの中に中学区、小学区をピラミッド型に編成した。近代的な中央集権的教育体制の確立を目指したものの、現実の地域社会の負担能力を超えていたため、わずか数年で瓦解を余儀なくされた。

フランスを模範とした画一的・中央集権的な学区制

明治政府は、近代国家にふさわしい国民教育の普及を目指し、1872年(明治5年)に学制を公布した。このとき、学校の設置基準および教育行政の単位として導入されたのが、フランスの学区制度(アカデミー制度)を模倣した「大学区・中学区・小学区」の階層的区画である。

具体的には、まず全国を8つの大学区に分割し、各大学区に「大学」を1校ずつ設置することとした。さらに、1つの大学区は32の中学区に細分化され、それぞれに「中学校」を1校設置(全国で計256校)。そして、1つの中学区は210の小学区に細分化され、それぞれに「小学校」を1校設置(全国で計53,760校)するという、極めて計画的かつ画一的な学校配置制度であった。この階層構造によって、中央の文部省から地方の末端学校に至るまでの教育命令系統を一本化し、国家主導の教育コントロールを容易にすることが意図されていた。

理想と現実の乖離と民衆の反発

この壮大な教育制度案は、当時の日本の財政状況や社会構造を無視した机上の空論に近いものであった。特に最大の問題は、学校の設置費用や維持費、教員の給与、さらには教科書代や授業料に至るまで、その大半が「民力涵養」の名のもとに、地域住民の負担(地方税や寄付)とされたことである。

当時、地租改正などの重税に苦しんでいた民衆にとって、突然義務付けられた学資負担や学校維持費は死活問題であった。また、労働力である子どもを学校に取られることへの不満も根強く、就学率は当初低迷した。このため、新政府への不満が高まり、同時期に頻発した地租改正反対一揆や血税一揆に連動する形で、新設された小学校の校舎を焼き討ちするなどの学校反対一揆が各地で勃発した。結局、計画された数万校の小学校すべてを適正に配置・運営することは不可能であり、制度は導入当初から破綻を内包していた。

教育令への転換と制度の終焉

このような地方の実情を無視した中央集権的な「学制」に対し、アメリカの地方分権的な教育制度を視察した田中不二麿(文部大輔)らは、制度の柔軟な緩和を模索するようになった。その結果、1879年(明治12年)に学制が廃止され、新たに教育令が制定された。

教育令の制定により、画一的な「大学区・中学区・小学区」の区分は完全に廃止された。これに代わり、学校の設置・管理は町村単位へと委ねられ、修学年限の緩和や就学義務の緩和など、各地方の実情に合わせた運用の弾力化が図られることとなった。この学区制の廃止と教育令への移行は、明治初期の急進的な「欧米化」政策が、日本の現実社会の抵抗に直面し、現実的な妥協を迫られた代表的な事例である。

学制百年史 (1972年)

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日本近代教育史事典

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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