昌平学校 (しょうへいがっこう)
1868〜1869年
【概説】
江戸幕府の昌平坂学問所を起源とし、明治新政府によって設立された教育機関。国学や漢学を教授して新国家の官僚養成などを目指したが、内部の学派対立により短期間で廃止された。
幕府学問所の接収と「昌平学校」の誕生
明治新政府は、1868(明治元)年に旧幕府の最高学府であった昌平坂学問所を接収し、同年「昌平学校」として再興した。これは、維新直後の混乱期において、新体制に必要な官僚や指導者を速やかに養成するための措置であった。当初は江戸時代以来の伝統である漢学(儒学)を中心に教育が行われたが、神道国教化を推し進める新政府の方針を反映し、まもなく国学も教育課程に導入された。しかし、この二つの学問体系の並立が、のちの混乱の火種となった。
学派対立の激化と学校の終焉
1869(明治2)年、昌平学校は洋学を担う開成学校や、医学を担う医学校を統括する最高教育機関である「大学校(まもなく大学と改称)」の本校へと改組された。しかし、学内では伝統的な漢学派と、新興の国学派との間で主導権を巡る激しい論争(国漢対立)が勃発した。さらに、近代化を推進するために西洋の学問(洋学)を重視すべきだとする勢力も加わり、教育方針は迷走を極めた。この対立を収拾できなかった明治政府は、1870(明治3)年に大学本校(旧昌平学校)の休校を断行し、翌年には正式に廃止した。昌平学校自体は短命に終わったが、その系譜や一部の機能は、のちに設立される東京大学へと引き継がれることとなった。