伊達宗城 (だてむねなり)
【概説】
幕末の「四賢侯」の一人に数えられた伊予宇和島藩の第8代藩主。明治維新後は新政府の民部卿兼大蔵卿などの要職を歴任した。1871年には全権大臣として清に渡り、李鴻章との間で近代日本初の対等条約である日清修好条規に調印した政治家である。
「幕末の四賢侯」としての台頭と宇和島藩の近代化
伊達宗城は文政元年(1818年)、旗本・山口直勝の次男として生まれ、後に伊予宇和島藩主・伊達宗紀の養子となって家督を継いだ。藩主就任後は積極的な藩政改革を推進し、高野長英や村田蔵六(大村益次郎)といった優れた知識人や技術者を招聘した。これにより、藩兵の洋式化や国産による近代的な蒸気船の建造に成功するなど、宇和島藩を幕末の雄藩へと押し上げた。
幕政においては、薩摩藩の島津斉彬、土佐藩の山内豊信(容堂)、越前藩の松平慶永(春嶽)とともに「幕末の四賢侯」と並び称され、一橋慶喜(徳川慶喜)を次期将軍に推す一橋派として活動した。このため大老・井伊直弼による安政の大獄で隠居・謹慎処分を受けたが、処分解除後は公武合体派の重鎮として国政に復帰し、朝廷と幕府の調停や参預会議への参画など、激動する政局の中心で活躍した。
新政府への仕官と日清修好条規の締結
明治維新後、宗城は新政府に仕えて外国官知事や民部卿兼大蔵卿を歴任した。当時、明治政府は欧米列強との不平等条約改正を最優先課題としていたが、並行して近隣のアジア諸国との間で近代的な国交を樹立する必要に迫られていた。こうした背景のもと、宗城は1871年(明治4年)に大蔵卿の地位を保ったまま全権弁理大臣に任命され、清国(天津)へと派遣された。
現地で清国の全権である李鴻章と交渉を重ねた結果、同年7月29日(新暦9月13日)、日清修好条規を調印した。この条約は、互いに領事裁判権(治外法権)を認め合い、協定関税を設定するなどの対等な内容であった。欧米列強に対して不平等条約を甘んじて受けていた当時の日本にとって、初の近代的な対等条約であり、その後の日本の東アジア外交における出発点となった。
条約調印後の足跡と晩年
日清修好条規という大仕事を成し遂げた宗城であったが、帰国直後の1871年8月に大蔵省の機構改革(大蔵省と民部省の分離等)に伴い、大蔵卿を辞任した。その後は賞勲局総裁などを務めたが、薩長中心の藩閥政治が強化される中で政治の第一線からは徐々に退き、華族界の指導者・重鎮としての役割を担うようになった。
1884年(明治17年)の華族令制定に際しては伯爵に叙され、さらに1891年(明治24年)には明治維新期から外交にわたる多大な功績により侯爵へと昇進した。そして翌1892年(明治25年)、74歳で没した。幕末の藩政改革から新政府の対外外交の確立に至るまで、宗城が果たした歴史的役割はきわめて大きい。