尚泰 (しょうたい)
【概説】
第二尚氏王統第19代にして、琉球王国最後の国王。明治政府が進めた中央集権化と国境画定政策である「琉球処分」により、琉球藩王を経て爵位を与えられ、東京への移住を余儀なくされた人物である。
外圧に揺れる王国と尚泰の即位
尚泰は1843年、第18代国王・尚育の次男として生まれた。1847年に父の死去に伴い、わずか4歳で王位を継承した(正式な即位礼は1866年)。彼が王位にあった幕末から明治初期にかけての琉球は、薩摩藩の支配下に置かれつつも、中国(清朝)とも朝貢・冊封関係を維持する「日清両属」の極めて複雑な政治体制をとっていた。
また、1853年にはアメリカのペリー艦隊が首里を訪れ、翌1854年には琉米修好条約を締結するなど、欧米列強の開国要求にも直面することとなった。尚泰は、このような内外の激動の時代において、国家の主体性を維持するという極めて困難な舵取りを強いられることとなった。
「琉球藩」の設置と日清間の葛藤
明治維新を成し遂げた新政府は、欧米列強に対抗するための国境画定と国内の中央集権化を急いだ。その過程で焦眉の急となったのが、帰属が曖昧であった琉球の領有化(日本領土への編入)であった。
1872(明治5)年、明治政府は尚泰を「琉球藩王」に封じ、華族に列した(第一次琉球処分)。これにより琉球王国は外務省の管轄から内務省の管轄へと移され、日本の一部としての位置づけが強化された。しかし、尚泰および琉球指導部は清朝との伝統的な冊封関係を維持しようとし、明治政府が要求した清朝との国交断絶や明治年号の採用、藩政改革などを拒み続け、抵抗を試みた。これが、日清両国間における「琉球所属問題」という外交摩擦を引き起こす要因となった。
沖縄県の設置と国王の終焉
進まない琉球の統合に業を煮やした明治政府は、1879(明治12)年、処分官・松田道之を警察官や軍隊とともに現地に派遣し、武力的威圧のもとで首里城を明け渡させた。これにより琉球藩は廃止されて沖縄県が設置され、琉球王国は名実ともに滅亡した(第二次琉球処分)。
王位を追われた尚泰は、政府の命令により東京への移住を余儀なくされた。その後、華族令の制定に伴って最高爵位の一つである侯爵に叙され、東京の邸宅で余生を送った。彼の東京移住は、かつての王国の象徴を沖縄から切り離し、旧王族による旧領復帰運動や反乱の芽を摘むための明治政府による政治的措置であった。尚泰は1901(明治34)年に東京で没し、遺骨は沖縄県那覇市にある第二尚氏の墓陵「玉陵(たまうどぅん)」に葬られた。その死は、一つの独立した王国の歴史の完全な終焉を象徴するものであった。