竹島
【概説】
日本海の隠岐諸島北西に位置し、1905年の閣議決定によって日本の領土として島根県に編入された島。江戸時代から日本の漁民によって利用されてきた歴史的実績と、アシカ猟などの実態を踏まえ、国際法に則り領有が確定された。第二次世界大戦後は大韓民国による不法占拠が続いており、現在に至るまで日韓間の重大な領土問題となっている。
近世における日本人の渡海と「竹島一件」
竹島は日本海に浮かぶ2つの主要な島(男島・女島)と多数の岩礁からなる島である。古くから日本の漁民に認知されており、江戸時代初期には現在の鬱陵島(うつりょうとう)が「竹島」または「磯竹島」、現在の竹島が「松島」と呼ばれていた。17世紀初頭、伯耆国(現在の鳥取県)の町人であった大谷・村川両家は、江戸幕府の公認を得て鬱陵島に渡海し、アワビの採取やアシカ猟などの漁労を行っていた。その際、現在の竹島(当時の松島)は、隠岐から鬱陵島へ向かう途中の寄港地や、豊かな漁場として利用されていた。
しかし、17世紀末になると、鬱陵島周辺で日本の漁民と朝鮮の漁民との間でトラブルが発生する。これを受けて日朝間で外交交渉が行われた結果、1696年に幕府は鬱陵島(当時の竹島)への渡海を禁止した。これを「竹島一件」と呼ぶ。重要なのは、このとき幕府が渡海を禁じたのは鬱陵島のみであり、現在の竹島(当時の松島)への渡海は禁じられず、その後も日本の漁民によって利用され続けたという歴史的事実である。
明治期の領土編入と国際法に基づく確定
明治時代に入ると、近代国家としての国境画定が急務となった。1900年代初頭、隠岐の漁業家である中井養三郎は、竹島周辺でのアシカ猟を独占的かつ安定的に行うため、政府に対して同島の領土編入と貸下げを願い出た。これを受けた日本政府は、他国がこの島を占有した形跡がないことを確認した上で、1905年(明治38年)1月28日の閣議決定によって同島を「竹島」と命名し、島根県隠岐島司の所管とすることを定めた。同年2月22日には島根県告示第40号によってこれが正式に公示された。
この領土編入は、当時の国際法における「先占の法理(無主の地を国家の意思をもって実効的に占有することで領有権を取得する原則)」に完全に合致する正当な手続きであった。折しも日露戦争の最中であり、竹島への望楼(見張所)建設など戦略的要衝としての側面もあったが、編入の最大の契機はあくまで水産資源の保護と漁業権の確立であった。
サンフランシスコ平和条約における領有の確定
第二次世界大戦後、日本を占領した連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、SCAPIN第677号などの覚書により、日本の竹島に対する行政権を一時的に停止した。しかし、これは最終的な領土の帰属を決定するものではなかった。
1951年に署名されたサンフランシスコ平和条約の起草過程において、韓国政府は日本が放棄すべき領土に竹島を含めるようアメリカに要求した。しかし、アメリカ政府は「竹島は朝鮮の一部として扱われたことがなく、1905年以降は日本の島根県に管轄されている」としてこの要求を明確に拒否した(ラスク書簡)。その結果、同条約において日本が独立を承認し権利を放棄する朝鮮の領域に竹島は含まれず、国際法上も竹島が日本の領土として留まることが確定した。
李承晩ラインの設定と不法占拠の常態化
しかし、サンフランシスコ平和条約が発効する直前の1952年1月、韓国の李承晩大統領は「海洋主権宣言」を一方的に行い、公海上にいわゆる「李承晩ライン」を設定して、竹島を自国側に不当に取り込んだ。日本政府はこれに強く抗議したが、韓国側は1953年以降、竹島に武装警察官を常駐させ、宿舎や灯台などの施設を建設して不法占拠を強行した。
この過程で、竹島周辺で操業していた多くの日本漁船が韓国側にだ捕され、多数の日本人乗組員が抑留されるなど、深刻な事態が引き起こされた。日本政府は1954年以降、この領有権問題を平和的に解決するため、国際司法裁判所(ICJ)への付託を韓国政府に三度にわたって提案しているが、韓国側はすべて拒否している。現在も竹島は韓国による不法占拠が続いており、日本は外交ルートを通じて粘り強く抗議と領有権の主張を続けている。