大久保政権 (おおくぼせいけん)
【概説】
明治六年の政変後に、内務省を設立した大久保利通が、事実上の最高権力者(内務卿)として政治を主導した強力な官僚専制政権。岩倉使節団での海外視察経験をもとに、内国事務の整理と「富国強兵」を最優先課題として推進した。不平士族の反乱や農民一揆を武力で鎮圧しつつ、強権的に近代化を進めたが、1878年の大久保暗殺により終焉を迎えた。
明治六年の政変と内務省の創設
1873年(明治6年)、朝鮮への使節派遣をめぐる征韓論争を発端に政府が分裂し、西郷隆盛や板垣退助、江藤新平らが一斉に下野した(明治六年の政変)。この危機を乗り越えて政権の実権を握ったのが、岩倉使節団から帰国した直後の大久保利通であった。
大久保は、欧米の先進的な官僚機構や産業を目の当たりにし、日本が欧米列強に対抗するためには、国内の治安維持と産業育成(富国強兵)を急務とする国家体制の構築が必要であると確信していた。そこで1873年11月、大久保は自ら首班となって内務省を新設した。内務省は、地方行政、警察、土木、勧業などを一手に掌握する超巨大官庁であり、大久保は初代内務卿(長官)に就任して、実質的な最高権力者として国政を主導する体制、すなわち「有司専制」と呼ばれる官僚独裁政権を確立した。
「富国強兵」と「殖産興業」の強行突破
大久保政権は、国家財政の基盤を安定させるために地租改正を強行し、税制の近代化を断行した。これは従来の収穫高に応じた米納から、地価に応じた金納へと改めるものであり、安定した国家収入を確保する上で極めて重要な改革であった。
同時に、内務省を中心に殖産興業政策を強力に推進した。官営模範工場の設立や鉄道・電信の整備、さらには三井や三菱といった政商(特権的商人)への手厚い保護を通じて、資本主義の育成を図った。また、版籍奉還や廃藩置県によって秩禄(家禄)を失った士族たちに対し、近代産業への就職や開墾を促す士族授産政策を展開した。これらはすべて、国内の産業活動を活発化させ、西洋に遅れをとらない近代国家を急速に建設するためのものであった。
激化する抵抗と政権の終焉
大久保政権による強硬な近代化改革は、急激な社会構造の変化をもたらし、多くの人々の反発を招いた。徴兵令や地租改正に反対する農民一揆が各地で頻発したほか、禄を奪われ不満を募らせる士族たちの反発は、1874年の佐賀の乱をはじめとする士族の反乱へと発展した。大久保は、これらの抵抗に対して徹底的な武力鎮圧と治安維持法(警視庁の設置、出版条例の強化など)の適用で臨んだ。
その極致が、1877年に発生した最大かつ最後の士族反乱である西南戦争である。大久保はかつての盟友であった西郷隆盛率いる薩摩軍を、近代的な徴兵軍隊を用いて徹底的に鎮圧し、国内の武装蜂起の時代に終止符を打った。しかし、この強権的な政治姿勢は、民権派からは「有司専制」として激しく批判され、士族たちの深い怨恨を買うこととなった。西南戦争の翌年である1878年5月14日、大久保は東京の紀尾井坂で石川県士族の島田一郎らによって暗殺され(紀尾井坂の変)、大久保政権は突如としてその幕を閉じた。大久保が築いた官僚主導による近代化路線は、その後の伊藤博文らへと受け継がれていくこととなる。