西南戦争
【概説】
1877年(明治10年)に西郷隆盛を指導者として薩摩(鹿児島県)の不平士族らが起こした、日本国内で最後かつ最大規模の内戦。明治政府の急進的な近代化政策に不満を持つ士族たちの反乱の集大成であり、約8ヶ月に及ぶ激戦の末に政府軍によって鎮圧された。この戦争の結果、武力による反政府運動は完全に終息し、以後の反政府運動は言論による自由民権運動へと移行していくこととなった。
士族の不満蓄積と西郷隆盛の下野
明治政府が推し進めた四民平等や近代化政策は、かつての支配階層であった武士(士族)から特権を奪い去るものであった。廃藩置県による藩の消滅、徴兵令の制定による軍事的な独占権の喪失、さらに廃刀令や秩禄処分(家禄の支給停止)は、士族のアイデンティティと経済基盤を根底から破壊した。
こうした不満が全国の士族に鬱積する中、1873年(明治6年)の明治六年政変(征韓論争)に敗れた西郷隆盛、板垣退助、江藤新平らが政府を去った(下野)。西郷は故郷の鹿児島に戻り、青少年の教育のために私学校を設立したが、ここには全国から西郷を慕う不平士族が集い、次第に反政府的な一大軍事組織の様相を呈していくこととなった。
私学校生徒の暴発と戦争の勃発
佐賀の乱(1874年)や神風連の乱、秋月の乱、萩の乱(いずれも1876年)など、士族の反乱が相次いで鎮圧される中、政府は西郷の動向を強く警戒していた。1877年(明治10年)1月、政府が鹿児島にある陸軍火薬庫の弾薬を秘密裏に大阪へ搬出しようとしたこと、さらに政府が派遣した密偵による西郷暗殺疑惑が浮上したことで、私学校の生徒たちが激昂し、火薬庫を襲撃する事件が起きた。
事ここに至り、西郷は「政府に尋問の筋あり」として挙兵を決意した。同年2月、西郷を総大将とする薩摩軍(約3万人)は鹿児島を出発し、北上を開始する。これが西南戦争の始まりである。
熊本城攻防戦と田原坂の激戦
薩摩軍は上京の途上で、政府軍の九州における重要拠点である熊本城を包囲した。谷干城(たにたてき)司令官率いる熊本鎮台兵は、籠城戦を展開して薩摩軍の猛攻を耐え抜いた。この熊本城の頑強な抵抗により、薩摩軍は長期間足止めを食うこととなった。
一方、政府は有栖川宮熾仁親王を征討総督とし、山県有朋らを参軍として大軍を九州へ派遣した。3月に行われた田原坂(たばるざか)の戦いは、西南戦争における最大の激戦となった。薩摩軍は伝統的な剣術を駆使した斬り込み戦法で政府軍を大いに苦しめたが、政府軍も士族出身の警察官で編成された抜刀隊を投入してこれに対抗。最終的に、圧倒的な物量と近代兵器を誇る政府軍が激戦を制し、薩摩軍は敗走を余儀なくされた。
城山の決戦と士族反乱の終焉
田原坂の敗戦後、薩摩軍は次第に追い詰められ、九州各地を転戦しながら退却を続けた。同年9月、西郷らはわずかな残兵とともに故郷の鹿児島・城山(しろやま)に立て籠もったが、数万の政府軍に完全包囲された。9月24日、政府軍の総攻撃のなかで西郷隆盛は自刃し、およそ8ヶ月に及んだ西南戦争は終結した。
この内戦は、徴兵制による「平民の軍隊」が、戦闘のプロフェッショナルである「士族の軍隊」を打ち破ったという点で極めて重要な歴史的意義を持つ。これにより、武力による政府転覆は不可能であることが誰の目にも明らかとなり、以後、士族による武力反乱は完全に絶えることとなった。
同時に、反政府運動の主軸は板垣退助らが主導する言論を用いた自由民権運動へと大きくシフトしていく。また、この戦争で多額の戦費を費やした政府は不換紙幣を乱発し、激しいインフレーションを引き起こした結果、のちの松方財政による深刻なデフレ(松方デフレ)へと繋がっていくのである。