愛国社の再興 (あいこくしゃのさいこう)
【概説】
1878(明治11)年、西南戦争後の沈滞した自由民権運動を再活性化させるため、板垣退助や立志社のメンバーを中心に、大阪で愛国社が再建された出来事。これにより武力闘争から言論闘争への転換が決定づけられた。のちに国会開設運動の全国組織である国会期成同盟へと発展し、民権運動の黄金期を築く契機となった。
西南戦争の終結と武力から言論への転換
1874年の民撰議院設立建白書の提出を機に始まった自由民権運動は、1875年に板垣退助らによって初の全国的組織である愛国社の結成へと至った。しかし同年の大阪会議を経て板垣が政府に参議として復帰したことや、資金難などから最初の愛国社はまもなく自然消滅の形で活動を停止した。
その後、1877年に士族反乱の最大かつ最後のものである西南戦争が勃発し、西郷隆盛率いる薩摩軍が敗北すると、武力によって明治政府を打倒することは不可能であることが決定的となった。この結果、政府への不満を持つ士族や知識人たちは、言論や請願運動を通じて民権を主張する合法的・政治的な路線へと完全にシフトしていく。この大きな歴史的転換期において、運動を全国規模で統一する組織の再建が急務となった。
愛国社の再興と地方への運動の広がり
1878年9月、高知の有力民権結社である立志社の呼びかけに応じ、大阪に全国の民権派結社の代表が集まって愛国社再興大会(第1回大会)が開催された。再興された愛国社は、各地の政治結社を連絡・統括する中心機関としての役割を担うこととなった。
翌1879年3月の第2回大会、11月の第3回大会と回を重ねるごとに、運動の担い手には変化が生じた。当初の士族中心の運動から、地租改正への不満や地方自治への関心を背景に、地方の地主や豪農・豪商(いわゆる豪農民権)が多数参加するようになったのである。これにより、民権運動は都市部や一部の不平士族の枠を超え、地方の農村部をも巻き込む全国的な大衆運動へとその質を変貌させていった。
国会期成同盟への発展と歴史的意義
再興された愛国社は、各地方で国会開設を求める署名運動を精力的に展開した。その運動の成果が集約されたのが、1880年3月に開催された第4回大会である。この大会において、愛国社はより明確な目的を掲げた全国組織である国会期成同盟へと発展的解消を遂げた。
愛国社の再興は、単に一つの政治結社が復活したというだけでなく、各地に乱立していた結社を「国会開設」という共通の目標のもとに大同団結させ、全国的な一大国民運動へと組織化する決定的な足がかりとなった。これに脅威を感じた明治政府は、同年に集会条例を制定して弾圧を強め、これが翌年の「明治十四年の政変」および「国会開設の勅諭」の公布へと歴史を動かしていくことになる。