河野広中 (こうのひろなか)
【概説】
明治から大正期にかけて活躍した自由民権運動家、政治家。国会期成同盟の代表として国会開設請願運動を主導したのち、福島県令・三島通庸の圧政に抵抗した福島事件で投獄された。釈放後は衆議院議員として政界に復帰し、衆議院議長や逓信大臣を歴任するなど近代日本の議会政治を支えた。
国会開設運動への参画と東北自由党の組織化
河野広中は陸奥国三春藩(現・福島県三春町)の藩士の家に生まれた。幕末期には戊辰戦争に官軍側として従軍し、維新後は地方官などを務めたが、やがて板垣退助らの思想に共鳴して自由民権運動へと身を投じた。1870年代後半から愛国社の再興や国会期成同盟の結成に尽力し、東北地方における民権運動の指導者としての地位を確立する。1880年には片岡健吉とともに国会開設請願書を太政官に提出しようとしたが政府に却下され、この経験からより組織的な政党結成の必要性を痛感し、1881年の自由党結成に幹部として参画した。
福島事件と専制政府による弾圧
1882年、福島県会議長に就任していた河野は、新任の福島県令・三島通庸と激しく対立することとなる。三島は「自由党掃討」を掲げ、県民に重い労働と費用負担を強いる「会津三方道路」の建設を強行した。河野ら県会および自由党員は、この専制的な県政に対して合法的な抵抗を試みたが、三島は警察力を用いてこれを徹底的に弾圧。これに憤激した党員や農民らが蜂起の構えを見せると、政府は河野をはじめとする主要な民権家を一斉に逮捕した。これが福島事件である。河野は内乱陰謀罪に問われ、軽禁獄7年の未決囚として過酷な獄中生活を送ることとなった。この事件は、政府が過激化する民権運動(激化事件)をいかに警戒し、徹底して排除しようとしたかを示す象徴的な出来事であった。
出獄後の政界復帰と議会政治への貢献
1889年、大日本帝国憲法の発布に伴う恩赦によって釈放された河野は、翌1890年の第1回衆議院議員総選挙において福島県から出馬し当選、国政の舞台へと復帰した。以後、連続30年にわたり当選を重ね、立憲改進党系の政党に身を置いて藩閥政府に対抗した。1903年には衆議院議長に就任。日露戦争後の講和条約(ポーツマス条約)に際しては、弱腰外交であるとして条約反対を訴える対外硬派の急先鋒となり、日比谷焼打事件を誘発したとして一時逮捕されるなど、生涯を通じて反骨の政治姿勢を貫いた。大正期には第3次大隈重信内閣で逓信大臣に就任し、大正デモクラシー期の政党政治の成熟を見届けながら、1923年にその激動の生涯を閉じた。