紀尾井坂の変 (きおいざかのへん)
1878年
【概説】
明治政府の最高実力者であった内務卿・大久保利通が、石川県士族の島田一郎らによって暗殺された事件。維新の三傑の最後の一人が倒れたことにより、明治政府の指導体制が次世代へと移行する契機となった。
専制政治への反発と不平士族の動機
明治六年の政変(征韓論政変)以降、政府の全権を掌握した大久保利通は、内務省を新設して自ら内務卿となり、殖産興業や富国強兵を強力に推進した。しかし、急進的な近代化政策や秩禄処分による特権奪取は士族階級の強い不満を招き、各地で士族反乱が頻発することとなった。1877年の西南戦争によって最大規模の武力抗争は鎮圧されたものの、大久保らの一部官僚による政権独占(有司専制)に対する恨みは燻り続けていた。石川県士族の島田一郎らは、大久保が「民権を抑圧し国政を私物化している」とする「斬奸状」を掲げ、暗殺計画を実行に移した。
事件の影響と指導権の移行
1878年5月14日、大久保は赤坂仮皇居へ向かう途中の紀尾井坂付近で島田らに襲撃され、命を落とした。木戸孝允の病死、西郷隆盛の敗死に続く大久保の死は、明治維新を先導した「維新の三傑」全員の退場を意味した。大久保の急逝後、その右腕であった伊藤博文が内務卿を継承し、指導権を握った。伊藤はこれまでの独裁的な官僚政治から、憲法制定や国会開設を見据えた近代的な立憲国家建設へと舵を切ることになる。また、この事件を契機に政府への抵抗手段は武力テロから言論による自由民権運動へと本格的に移行していった。